ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

サンキューコールかわさき

市政に関するお問い合わせ、ご意見、ご相談

(午前8時から午後9時 年中無休)

閉じる

昔からの6街道

  • 公開日:
  • 更新日:
昔からの6街道のルート

1.府中街道(ふちゅうかいどう)

東海道(とうかいどう)・甲州街道(こうしゅうかいどう)が東西路とすれば、府中街道(ふちゅうかいどう)は南北路の代表です。この街道は、川崎宿の六郷(ろくごう)の渡し辺りから多摩川(たまがわ)に沿って上流に進み、小杉で中原街道(なかはらかいどう)、溝口(みぞのくち)で大山街道(おおやまかいどう)、登戸(のぼりと)で津久井道(つくいみち)、そして多摩川を超えて府中に達します。府中はかつて川崎を含む武蔵の国の国府が置かれていたところ。しかし、鎌倉に幕府が開かれるようになると、各地の武将と鎌倉(かまくら)を結ぶ政治・軍事上の道「鎌倉道」が生まれ、府中街道の一部分もその役目を果たしていました。

街道が二ヶ領用水(にかりょうようすい)に沿うあたりは、周囲より高く堤防の役目を果たしていました。特に中原地区の市ノ坪(いちのつぼ)は、かつては豊富な水を利用した花づくりの産地として知られていました。

2.津久井道(つくいみち)

登戸(のぼりと)から西へ、生田(いくた)、柿生(かきお)、鶴川(つるかわ)に向かい、さらに鶴見川の上流に沿って相模原市の橋本から津久井地方に至る道です。同じ道を東へ進むと三軒茶屋(さんげんぢゃや)で大山街道(おおやまかいどう)と合流し、赤坂御門まで続くことから、多摩川から西の地方では「江戸道(えどみち)」と呼ばれていました。

この街道は、津久井(つくい)・愛甲(あいこう)の絹を江戸へ送るいわゆる「シルクロード」として利用されると同時に、黒川炭などの特産物も運ばれていました。しかし幕末の安政の開港にともない絹は横浜へ運ばれるようになり、江戸向けの物資も減りました。いまでは、多摩丘陵におけるやすらぎの散歩道となっています。

3.大山街道(おおやまかいどう)

大山街道は江戸赤坂御門を起点に、多摩川を渡り、二子(ふたご)、溝口(みぞのくち)を経て多摩丘陵を上る道です。街道はさらに厚木(あつぎ)、大山(おおやま)のふもとの伊勢原(いせはら)、秦野(はだの)を経て関所のあった矢倉沢(やぐらさわ)を通って足柄峠(あしがらとうげ)を越えます。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道(あつぎかいどう)」とも「矢倉沢(やぐらさわ)往還」とも呼ばれてきました。

古くから大山詣りの道として知られ、また駿河(するが)の茶や真綿、伊豆の椎茸、乾魚などの物資を輸送する商業ルートとしても重要な役割を果たしてきました。周辺には当時が偲ばれる蔵造りの商家が残っています。現在では、昔の道筋をほぼ踏襲し、国道246号となっています。

4.中原街道(なかはらかいどう)

東海道に平塚(ひらつか)の宿場があり、このはずれに 中原(なかはら)という所があります。ここからほぼ真っ直ぐに江戸へ延びているのが中原街道です。中原の宿を出るとすぐに相模川(さがみがわ)を越え、用田(ようだ)、瀬谷(せや)、佐江戸(さえど)の宿を過ぎ、川崎の小杉(こすぎ)の宿に着きます。江戸に入るのは丸子(まるこ)で多摩川を越え、馬込(まごめ)、中延(なかのぶ)、戸越(とごし)、下大崎(しもおおさき)、三田(みた)を経て江戸城の虎ノ門(とらのもん)に達していました。

中原街道の名の起こりは、平塚の中原に徳川家康(とくがわいえやす)が御殿をつくり、そこを通って江戸へ向かうために中原街道と呼ばれたものです。現在では県道丸子中山茅ヶ崎(まるこなかやまちがさき)と呼ばれています。

5.東海道(とうかいどう)

天下統一を成し遂げた徳川家康により、まず始められたのが街道の整備でした。五街道とは日本橋(にほんばし)を起点として設けられた5つの幹線道路、東海道・中山道(なかせんどう)・甲州街道・日光街道(にっこうかいどう)・奥州街道(おうしゅうかいどう)のこと。東海道は江戸から京都までをいい、道のりは125里20町で、おおよそ502kmになります。

東海道は五街道のうちでも特に重視され、慶長(けいちょう)6年(1601)いち早く伝馬制がしかれます。そして53宿が整うのは寛永(かんえい)12年(1635)のこと。川崎宿は他の宿より遅れて元和(げんな)9年(1623)頃につくられました。東海道を上る旅人の休憩地として、下る旅人には六郷(ろくごう)の渡しを控えた最後の宿泊地に、そして川崎大師(かわさきだいし)の参詣の拠点として賑わった宿場でした。

6.大師道(だいしみち)

大師道は東海道53宿の1つ川崎宿から、厄除けで知られる川崎大師(かわさきだいし)に至る道です。古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は徳川11代将軍家斉(いえなり)が文化(ぶんか)10年(1813)に公式参拝してから、いっそう広く信仰されるようになりました。初詣はもちろん、節分、毎月21日の縁日、大師様の誕生日を祝う降誕会、命日の御影供と、日帰り参詣ができる関東屈指の霊場として参詣客が絶えません。こうして川崎宿と大師道は賑わいをみせました。