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旧北村家住宅

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2010年6月7日

旧北村家住宅

旧北村家住宅 1棟

建築年代

江戸時代〔貞享4年(1687)〕

規模

桁行15.6m 梁行8.9m

構造形式

寄棟造、茅葺

所有者

川崎市

所在地

多摩区枡形7-1-1(日本民家園)

指定

重要文化財 昭和41年12月5日指定

解説

 北村家住宅の旧所在地は大住郡鍛冶谷村(秦野市堀山下)で、名主の分家と伝えている。解体移築の際に柱枘より墨書銘が発見され、貞享4年(1687)の建築であることが判明した。これは、建立年時の明らかな民家としては、東日本では茨城県出島村の椎名家住宅延宝2年(1674)に次いで古い。また建築を手掛けたのも同村及び近在の大工であり、こうした面からも当地方民家の代表例とするにふさわしい。
 年代的には、旧伊藤家住宅よりやや早いが、逆に進んだ面も見られるので、両者を比較しながら見てみたい。
 まず、外観は伊藤家よりかなり開放的である。ヒロマの前面は中央1間を格子窓(シシマド)とするが、その両側の柱間には掃き出し戸を入れてここから直接出入りができるようになっている。しかし向かって右側1間は半分を壁として、板戸と障子を片引とするのに対し、左側1間は引違戸としていて、やや統一感に欠ける。古風な格子窓から掃き出し戸に変化する、その過渡期の姿を示しているのだろう。また、縁側もオク(デイ)のみでなく、ヒロマの前面にも設けられて、江戸中期以降の一般的な民家の姿にさらに近づいている。
 オク(デイ)には簡略なものながら床の間がつくのも新しい傾向である。しかしまだ天井は張られていない。ヘヤには押入が登場し、また妻側2間を開口部とするのは随分と進んだ形式である。
 一方で、ヒロマと部屋の境には古風なオシイタ(押板)が設けられている。これは清宮家にはあったが伊藤家ではすでに消失している。もっとも、大住郡の平塚市近辺では幕末期まで押板は残るから、地方的な特徴なのかも知れない。押板の用途は必ずしも明確にされていないが、棚のうしろを板壁にするのが普通だから、この壁に札や絵などを掛け、宗教的な行事に使われることが多かったらしい。また、ヘヤの入口は清宮家と同じく、敷居を床よりも一段高くする納戸構えの形式である。
 ヒロマの床は伊藤家と同じく竹簀子である。そして土間・ヒロマ境の長押上部の小壁も土壁の代わりに細い丸竹を縦に並べ、あるいはヒロマの竹簀子天井、竹の垂木、土間の外周保護のための割竹の腰壁(ササラバメという)など、竹を随所に使用している。手に入れやすく、また加工のしやすい竹が、当時の民家にとっては重宝な建築材料であったことを教えてくれる。
 構造は標準的な四方下屋造。小屋組は扠首に棟束を併用し、束同志を貫で緊結する古式な構造である。柱材は胡桃を主とするが、桁行の梁を受ける各室境の柱に丈夫な欅を用いるのは構造上の配慮であろう。柱は木太く、骨組みはがっしりしている。
 以上のように、北村家住宅は開放的な造りとともに押入や棚の造り付け、障子の全面的使用など、当時の一般よりも進んだ形式を見せている。そして均整のとれた外観もあわせて、17世紀末の平均よりはかなり上質の民家として高く評価されている。
 (注)柱枘の墨書には「貞享四年□月吉日 相州堀山下村 大工者鍛冶谷村理兵衛 平沢村源兵衛」「当村木引七兵衛」「貞享四年丁卯二月吉日 大工当流理兵衛」などがある。

旧北村家住宅平面図

旧北村家住宅平面図

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