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旧野原家住宅

  • 公開日:
  • 更新日:

旧野原家住宅 1棟

建築年代

江戸時代後期

規模

桁行17.5m 梁行10.6m

構造形式

東面入母屋造、西面切妻造、茅葺、一重三階

所有者

川崎市

所在地

多摩区枡形7-1-1

川崎市立日本民家園内

指定

県指定重要文化財 昭和46年3月30日指定

解説

 砺波平野を貫流し富山湾に注ぐ庄川を溯行すると、そこは合掌造民家のふるさとである。合掌造は飛騨白川村のものが最も有名だが、さらに上流の荘川村(かつては白川村と荘川村をあわせて白川郷と呼んでいた)や、下流の富山県五箇山地方にも広く分布している。合掌造に共通する外形上の特徴は急峻で大きな屋根や、棟の近くにかんざし(笄)のように横木を刺し、これを手がかりにして棟を押さえる笄棟(こうがいむね)などで、見る人に強い印象を与える。しかし子細にみれば各土地の事情を反映して、間取りや構造はそれぞれ相違している。
 野原家住宅の旧所在地は庄川が東に分岐した利賀川の流域(富山県東礪波郡利賀村)に位置するが、同じ五箇山でも庄川本流に沿って山ひとつ隔てた平村や上平村の合掌造とはかなり趣を異にしている。利賀谷の合掌造は白川村の切妻造とは違って、妻飾の大きな入母屋造である。これは基本的には五箇山全域の合掌造に共通するが、一方で入口は土間の平側につくいわゆる平入で、これは同じ五箇山の平村や上平村の妻入(妻側に入口がつく)とは異なっている。間取りも、土間沿いの部屋を前後2室に分ける上平村の民家に対して、利賀村では仕切りのない大きな一室としている。屋根の形式こそ似てはいるものの、両者はむしろ別系統の民家と考えられている。
 野原家の大戸口を入ると、狭いトオリに面してマヤ(厩)があり、その奥が流し場や農機具などを置く場所に使われるニワである。土間が狭いのは平野部の民家と異なって屋内での農作業が少ない、山間の農家に共通する特色である。土間とオエの境は中央部と背面半間を除いて、板壁によってしっかりと仕切られる。冬の冷え込みのきつい山地農家ならではの構えである。広いオエにはふたつの囲炉裏が切られる。
 ザシキの妻側は仏間で、半間幅の狭い通路を挟んで仏壇を設ける。真宗の勢力が強かった当地方では仏壇はきわめて大事に扱われた。ただ、幕末期の民家では1間幅の広い仏間を持つようになるから、当家の場合はその過渡期の形態といえよう。
 ナンド(寝室)はきわめて閉鎖的で、オエとの間に入口が設けられるだけで、他の三方は板壁で塞がれている。仏間やナンドのこうした構えは、当家が幕末期までは降らないことを示している。
 合掌造に共通する構造上の特徴はチョーナ梁の使用である。チョーナ梁は斜面に生えたために根元が大きく湾曲した木を梁として使用したもので、手斧の柄に似ているところからこうした名称が冠せられている。野原家ではオエとザシキの上部に用いられているが、これは上屋と下屋という、高さの異なる2点間を結ぶために木の曲がりを利用したもので、意匠的にもひとつの見せ場になっている。
 柱は木太く、側柱で6寸角程度、上屋柱は7寸から、太いものでは9寸角に近いものまで使用している。柱間は丈の高い差物によって緊結される。屋内の間仕切りだけでなく、外回りの柱間にも差物を入れるのは、この地方では18世紀後半になって現れる新しい傾向である。このように木太い柱と差物によってがっしり固められた軸部は、数世代にわたって厳しい自然環境に耐え抜けるように考えられた、合掌造の基本でもある。そしてその上部には勾配のきつい、頑丈な10組の扠首(合掌)によって大きな屋根が支えられる。広い小屋裏は2段に仕切られ、養蚕などの農作業のための空間を確保している。
 以上のように、旧野原家住宅は利賀谷における合掌造の特徴を十分に備えた、この地方の典型的な民家として貴重である。

旧野原家住宅平面図

旧野原家住宅平面図

お問い合わせ先

川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課

〒210-0004 川崎市川崎区宮本町6番地

電話: 044-200-3305

ファクス: 044-200-3756

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