子之神社
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本殿
住所
多摩区菅北浦5-4-1
交通案内
JR南武線・京王相模原線「稲田堤駅」下車、徒歩10分
地図
解説
子之神社(ねのじんじゃ)という名の神社は、南関東から東海地方にかけて集中的に分布し、川崎市域では、旧都筑(つづき)郡早野村、橘樹(たちばな)郡菅(すげ)・野川・梶ケ谷(かじがや)村の4社を数えるのみです。当神社の起源は定かではありませんが、『新編武蔵風土記稿』によると、鎌倉時代には、小沢郷7か村の総鎮守(そうちんじゅ)であったと伝えられます。この小沢郷は、川崎市域の菅・細山・金程(かなほど)から、隣接する稲城市域の坂浜村(多摩郡)付近にかかる範囲にあったと推定されています。時代は下がって江戸時代の頃になると、菅村の鎮守として、根ノ上社・根上明神・根之神社などと呼ばれていました。その後、明治10年(1877)の頃、社名を現在の「子之神社」に改めました。
『新編武蔵風土記稿』には、当社は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、兵火にあって焼失し、江戸時代前期の延宝7年(1679)、菅村の領主である旗本の中根氏が、当社を管轄していた法泉寺(ほうせんじ)に田畑を寄進して、社殿を再興したと述べられています。その後、享保13年(1728)には、佐保田与市(さほたよいち)ら3名の村民が願主となって、本殿と拝殿を造営しました。現在の社殿は、その後に再建されたものです。
まず本殿の再建時期は、建築様式からみて、江戸時代の末期と推定されます。一方、拝殿は、文化8年(1811)に再度造営されましたが、現在の拝殿は、さらにその後、明治13年(1880)に改築されたものです。
子之神社本殿の造りは、「一間社流造」(いっけんしゃながれづくり)で、正面に千鳥破風(ちどりはふ)、向拝(ごはい)に軒唐破風(のきからはふ)を付け、母屋(もや)の組物を三手先斗栱詰組(みてさきときょうつめぐみ)としています。総欅(そうけやき)、素木(しらき)仕上げの建物で、木鼻(きばな)や正面の桟唐戸(さんからと)及び脇障子(わきしょうじ)をはじめ、四面の壁面、組物などの小壁、向拝柱や繋虹梁(つなぎこうりょう)などが、龍や三国志その他の物語の一場面を描いた素木の彫物で飾られ、幕末期の特徴を良く示しています。このように、壁面及び細部を彫刻装飾で埋めつくした建物の事例は、神奈川県下の社寺建設では数少なく、貴重な建造物といえます。彫物は、その精緻(せいち)な彫り方からみて、江戸の名のある彫工の作と推定されます。
子之神社の本殿は、平成8年(1996)川崎市重要歴史記念物に指定されています。
所有指定文化財
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