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木造 国一禅師坐像

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木造 国一禅師坐像

木造 国一禅師坐像 1軀

年代

室町時代

像高

46.8cm。頭頂~裳先69.5cm

所有者

寿福寺(多摩区菅仙谷1-14-1)

指定

市重要歴史記念物
昭和49年2月19日指定

解説

 両手で払子(ほっす)を握り、両袖と裳裾を垂下して曲彔(きょくろく)に坐る。寄木造、玉眼嵌入、彩色は剥落。頭部は耳の後で前後に矧ぎ、体部に差しこむ。体部は像底部を刳り残した共木の前後二材に左右側面材を寄せる。両手・脚部・法衣垂下部などは別材。首枘(くびほぞ)背面に

国一禅師坐像 銘文 その一

 という墨書銘があるほか、以下のような銘文を記した二枚の銘札が胎内に納入されている。

国一禅師坐像 銘文 その二

 これらから、像は国一禅師太古世源(1232~1321)の肖像で、もと向上庵に祀られていたのを大正8年、寿福寺に移安したことがわかる。この像を早くに精査された清水真澄氏は、国一禅師の「出自等は不明で、寿福寺の塔頭であった向上庵の開山であったようである」とし、さらに記しておられる。
 「又、開山と伝えられ2枚目の銘札の表に見られる大安禅師法慶との関係も不明である。そして、康応元年(1389)に没した仏満禅師の嗣であると銘に記されている者が法慶とすると、それより70年も早く塔頭向上庵の開山が亡くなっていることになり、つじつまが合わないことになる」と。
 しかし、まず太古世源の伝記は『延寶傳燈録』『本朝高僧傳』『扶桑禪林僧寶傳』などにみえる。それらによれば世源は常陸国に生れ、はじめ兀庵普寧(ごったん ふねい)、ついで無学祖元(むがく そげん)に参じて祖元の法を嗣ぎ、みずから光福寺を開いたほか、鎌倉建長寺の第16世をもつとめ、元亨元年(1321)9月25日、向上庵で示寂、国一禅師の諡号を賜った、という。
 そして、向上庵は寿福寺ではなく、同寺の本山建長寺の境内にあった塔頭である(現在廃絶)。また、寿福寺開山大安法慶の師は、三河国に生れ、太平妙準(たいへい みょうじゅん)に嗣法、那須雲巌寺のほか浄妙寺・浄智寺・円覚寺・建長寺等、鎌倉の名刹に歴住し、応安元年(1368)に示寂した大喜法忻(だいきほうきん)で仏満禅師はその諡号である。康応元年の没年は大安法慶のもので、銘札の記文に矛盾はない。
 嗣法の流れからみた場合、ふつう仏光国師の諡号で親しまれている無学祖元の師は無準師範(ぶじゅん しばん)であり、「太古無準之的孫也」という銘札の記述は、この事実に基づく。一方、大喜法忻の師太平妙準もやはり祖元の弟子高峰顕日(こうほう けんにち)の法を嗣いでいる。世源・法慶ともに、仏光派と称される祖元の法系に属していることになり、世源は法慶のいわば先達にあたる。こうした結びつきがあったからこそ、向上庵に安置されていた世源の像を寿福寺に迎えるにいたったのであろう。銘文の内容はすべて「つじつま」が合うことになる。
 やや煩わしい考証になったが、像の彫技は衣皺を整理した着衣部では幾分柔軟さを欠く。だが、うねりの強い瞼・高い鼻・うすい唇など、面部の写実性はなまなましく、よく肉体的特色をとらえている。室町時代後期作とする説もあるが、面部の写実性からみて、たとえ室町時代にしても早い時期の造立ではないかと思える。なお、正徳5年(1715)に像を修理した薩摩は鎌倉に仏所を備えていた三橋姓仏師の一人で、鎌倉来迎寺木造阿弥陀如来像造立〔正徳2年(1712)〕をはじめ、幾つかの事績が伝わっている。また、明和6年(1769)の修理にたずさわった三橋永助も鎌倉仏師の一人であり、修理や造像の事績がやはり他にも幾つか確認されている。

お問い合わせ先

川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課

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