長念寺
- 公開日:
- 更新日:
住所
多摩区登戸1416
交通案内
JR・小田急線「登戸駅」下車、徒歩約15分
地図
彫刻と絵画
絹本着色秀月禅尼画像
永池山長念寺は、木造阿弥陀如来立像(江戸時代作)を本尊とする浄土真宗西本願寺派の寺院で、縁起によると、大永2年(1522)に法専坊によって創建された後、江戸時代に秀月禅尼(しゅうげつぜんに)によって中興されたといわれています。
秀月禅尼は、徳川家光に仕えていた菅の領主中根壱岐守平十郎正朝の母で、慶安元(1648)年に亡くなっています。当寺には、禅尼の亡くなった翌々年に制作された絹本(けんぽん)着色秀月禅尼画像(市重要歴史記念物)が伝えられています。本図は、縦65.5cm、横27.5cmの軸物で、禅尼の温和な表情がよく描かれているとともに制作年代が明らかであるため、市内における江戸時代初期肖像画の基準作として貴重です。
この他、当寺には紙本金地著色鳥合わせ図屏風(しほんきんぢちゃくしょくとりあわせずびょうぶ)(神奈川県重要文化財)及び木造阿弥陀如来立像(市重要歴史記念物)が所蔵されています。
鳥合わせ図屏風は、中央上部に池庭を、左右には上流階級の居館の縁先を配し、その上には円形と方形の鳥籠一対が置かれ、中にウグイス、ウズラ、メジロ、ヒバリなどが描かれていますが、人物は一人も描かれていません。
本屏風の出来栄えは非常に優れたものであり、画題も非常にめずらしく貴重な作品です。この屏風の作者を狩野永徳(かのうえいとく)(1543~1590年)とする伝承がありますが、その確証はなく、構図及び筆法から狩野・土佐両派を折衷した狩野派画人による桃山時代の作と考えられています。
阿弥陀像は、像高64.3cm、寄木造、玉眼で、衣文を複雑に彫出していますが、仕上げはていねいに行われています。背部内面には墨書銘が記されており、本像が天文3(1534)年に日光に住んでいた道仙正蓮によってつくられたことがわかり、室町時代の基準作として大変貴重です。
建造物
長念寺本堂
長念寺は、江戸時代の建物である市重要歴史記念物に指定されている本堂、山門、庫裏(くり)が整然と配置され、近世寺院の境内環境をよくとどめています。本堂は、文政7(1824)年に上棟された建物で、庫裏もほぼ同じ時期に再建され、本堂の落慶供養が行われた弘化5(1848)年には完成していたと思われます。山門は、嘉永7(1854)年に上棟されました。
本堂は正面柱間7間(背面は9間)、側面柱間7間の規模で、正面1間に唐破風(からはふ)を付けた向拝(ごはい)を出します。屋根は、もと急峻な勾配をもつ寄棟造(よせむねづくり)の茅葺(かやぶき)で、向拝に瓦を葺いていましたが、昭和34(1959)年に現在の入母屋造(いりもやづくり)・銅板瓦棒葺(かわらぼうぶき)に改修されました。平面は、前面4間通りに信徒のための外陣(げじん)と矢来(やらい)及び内縁(うちえん)をとり、その奥2間通りを上段構(じょうだんがまえ)として、中央から左右に内陣(ないじん)、余間(よま)、飛檐(ひえん)の間を並べた真宗本堂特有の構成です。内陣と左右余間正面の装飾を凝らした意匠、及び外陣と矢来上部に大虹梁(だいこうりょう)を架け渡した外陣の構成は見せ場となっています。棟梁(とうりょう)は、登戸村の小林源三郎と上平間村の渡辺喜右衛門棟暁です。
庫裏は寄棟造、茅葺の南北棟の建物で、南側に中二階を造っています。正面に武家風の両開戸(りょうびらきど)を立てた玄関を取るのは寺格を表します。
表向きの10畳敷の書院は床の間、違棚(ちがいだな)、付書院(つけしょいん)を備え、客座敷としてまとまりを見せています。南側の台所はもと土間で、その西側を住職の居間とし、中二階を隠居部屋に当てていました。住職の居間をこの位置に取るのは、この庫裏の特色です。
山門は、丸柱(まるばしら)の前後の控えの角柱(かくばしら)を立てた四脚門(よつあしもん)で、丸柱の上に冠木(かぶき)を渡した和様(わよう)の形式です。総欅(そうけやき)の木地(きじ)仕上げの建物で、組物(くみもの)の間の小壁(こかべ)や二重虹梁を架けた妻壁(つまかべ)を彫刻で埋めています。また木鼻(きばな)や持送り(もちおくり)の彫刻、虹梁表面の浮彫(うきぼり)、あるいは冠木の地紋彫(じもんぼり)など彫刻を多用し、幕末期の特徴をよく示しています。大工棟梁は登戸村の小林彌太郎信久、彫工は名工といわれた江戸深川の後藤弥太郎氏前です。
長念寺本堂平面図
所有指定文化財
所有川崎市地域文化財
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