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木造 薬師如来両脇侍像(妙楽寺)

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木造 薬師如来両脇侍像
木造 薬師如来像
木造 薬師如来両脇侍像

木造 薬師如来両脇侍像 3軀

年代

室町時代〔永正6年(1509)〕

像高

(薬師)48.0cm
(日光)65.5cm
(月光)65.5cm

所有者

妙楽寺(多摩区長尾3-9-3)

指定

市重要歴史記念物 昭和43年2月10日指定

解説

 薬師如来坐像の両脇に日光・月光両菩薩立像を配する、いわゆる薬師三尊像である。
 中尊は納衣を通肩に着し、膝上で定印を結び、その上に薬師の持物である薬壺をのせる。このスタイルは、薬師如来の印相として一般的な右手施無畏・左手与願印を結ぶ作例に比べるとはるかに数は少ないが、県下でも南足柄保福寺像(平安時代)や鎌倉覚園寺像(鎌倉時代)などが同様の印相である。寄木造で玉眼を嵌入し、漆箔仕上げとする。蓮弁形光背及び台座は後補。頭部や体部の内側に墨書銘が記されていて、この像が永正6年(1509)に造立されたことが判明する。作者の名前が消えて判読できないのは惜しいが、大粒の螺髪や低い肉髻、動きを強調した衣文表現には、室町時代頃の宋元風の影響を受けた作風がよく反映されている。
 一方、両脇侍像は各々日輪・月輪を付けた持物を捧持する。両像ともに寄木造で玉眼嵌入。やはり中尊と同じく中世宋元風の影響を受けた作風が窺えるが、日光菩薩像に比べて月光菩薩像の彫技がやや硬い点から、月光像のみ江戸時代の補造ではないかとの指摘もある。
 本像は近年まで虫喰いや破損のため尊貌を損ねていたが、昭和52年に東京芸術大学の本間紀男助教授(当時)によって解体修理が行われ、日光菩薩像の胎内からこの像が天文14年(1545)に駿河という仏師によって造立されたことが記された墨書銘が発見された。
 つまり本像はまず薬師如来像が永正6年に独尊で造られ、その36年後に脇侍像が補われ三尊像となったわけである。
 またこの銘文で今一つ注目すべき点は、本来この像が長尾山威光寺の仏像として造立されたことが明記されていることである。言うまでもなく、この場合薬師三尊として祀られていたことが考えられる。威光寺は長尾寺とも呼ばれ、平安時代初期に慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられる古刹である。鎌倉時代には源頼朝の弟全成が住職するなど『吾妻鏡』にも散見できるが、その歴史や所在さえほとんど不詳である。
 威光寺と同じ長尾山と号する妙楽寺のある長尾丘陵は中世に入って鎌倉防衛の北の要として重視され、元弘3年(1333)は新田義貞が北条氏と戦った分倍河原の合戦もこの地をめぐる攻防であった。早くからこの北の要所が威光寺の所在地ではないかという説もあったが、この銘文の発見によって本像が祀られていた威光寺が少なくとも室町時代の終わり頃までこの付近に存在し、廃寺となった後に何らかのつながりのあった当寺が山号を引き継いで、薬師三尊像も移安したことが考えられる。

銘文

一、薬師如来坐像胎内墨書銘

薬師如来坐像胎内墨書銘

二、日光菩薩立像胎内墨書銘

日光菩薩立像胎内墨書銘

コンテンツ番号542