旧作田家住宅
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旧作田家住宅 2棟
建築年代
江戸時代中期
規模
主屋 桁行13.0m、梁行10.3m
土間 桁行12.3m、梁行5.6m
構造形式
寄棟造、茅葺、風呂場及び便所付属
所有者
川崎市
所在地
多摩区枡形7-1-1
川崎市立日本民家園内
指定
重要文化財 昭和45年6月17日指定
解説
江戸期の房総・九十九里浜は鰯漁で賑わい、生産された干鰯(ほしか)は速効性の肥料として、江戸近郊の農家をはじめとして遠く四国や紀伊方面などでも珍重された。作田家は佐久田村(千葉県山武郡九十九里町作田)の名主で、同時に鰯漁の網元を勤めた有力な家柄であった。作田家の主屋は17世紀末頃の建築と推定されているが、こうした財力を反映して当時の民家としては相当大規模である。
移築前は周辺の農家と同じく、ひとつ屋根のいわゆる直屋の形式であったが、調査の結果、かつては分棟型であったことが判明し、現在はそのように復原されている。直屋に改造した時期は18世紀末頃だったらしく、その時に土間棟はすっかり建て替えられ、材料もすべて新材に替えられた。しかし発掘調査によって土間の規模は当初から変化のないことが判明したので、建て替え時の柱や梁を再用して、土間を別棟の形式に復原している。また、この地方にはすでに分棟型の民家形式は全く残されていなかったので、主屋と土間との取り合わせ部分の雨水の処理法などは前述した太田家住宅など、茨城県の分棟型民家を参考に整備された。
作田家の間取りは、漁家とはいっても農家のそれとなんら変わるところがない。移築前の形式にならって土間の妻側に3室の板敷のシモベヤが復原されているが、これらの部屋は漁具の置場や漁夫の寝場所として使用したというから、ここだけが漁家らしい特徴ということになろう。
千葉県には関東の民家の主流である広間型3間取の伝統がない。いくつかの間取りのタイプがあるが、それらに共通するのはヒロマの背面にナンド(寝室)を置くことで、これは客座敷の背後に寝室を置く広間型3間取とは明らかに系統を異にしている。この型の間取りは茨城や栃木、群馬にも散見されるが、まとまって分布するのは神奈川県の三浦半島のみである。三浦半島の観音崎と房総の富津との間は浦賀水道を隔ててわずか10kmほどしか離れていないから、海路によって住文化を共有したのだろう。
作田家住宅は床上6室と土間とからなる。家の中心はカミで、桁行が4間もあり、家柄を反映してきわめて広い。日常的な接客の場で、前面の3間を格子窓とするのはこの時期の関東の古民家に共通する構えである。カミとナンドとの境には仏壇と押板とが並ぶ。押板は仏壇とともに宗教的祭祠の場だったのかも知れない。チャノマは囲炉裏を中心に日常生活が営まれる所で、もっと古い時期にはおそらくカミとの仕切りはなかっただろうと推測されている。
ゲンカンは特別の出入口で、畳が敷かれるが、後世の式台構えのような武家住宅的な体裁を伴わない、農家らしい素朴な玄関の形式である。ゲンカンからナカノマ、オクはひと続きの接客空間で、床の間を備え、また面積的にもたいへん充実しているが、まだ天井はなく、過渡的な形態である。客用の風呂・上便所は幕末期の嘉永4年(1851)頃のものである。
構造は、梁行が5間と広いため、二段に組んだ梁行梁の上にさらに二の小屋を組んで、1本の扠首の長さを短くしている。すべて下から見渡せる梁組は豪壮で、やや細身ながら曲がりくねった梁を自在に組み上げた大工の腕は見事である。差物の使用も時期的にかなり早い。
以上のように、作田家は千葉県上総地方に残された唯一の分棟型民家であり、かつ網元という特異な家柄と、それに見合う豪壮かつ高質な居宅で、民家史上貴重な存在である。
旧作田家住宅平面図
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