丸山教本庁
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住所
多摩区登戸1274
交通案内
小田急線「向ヶ丘遊園駅」北口下車、徒歩12分
地図
解説
明治19年(1886)、登戸村に丸山教本庁がおかれました。
丸山教は、明治3年(1870)登戸村の農民であった伊藤六郎兵衛を教祖として、富士講の一派である丸山講を背景として興った、世直し的性格のつよい新興宗教です。
幕末から明治維新期には、その政治や社会の変革に伴って全国的に新たな民衆宗教が展開しました。例えば中山みきの「天理教」、黒住宗忠の「黒住教」、あるいは金光大神の「金光教」などです。丸山教もこれらと同様、やはり社会不安の中における民衆救済の教義にたったものでした。
明治13年(1880)には、二子付近の多摩川河原で信者8000人の大祈祷(きとう)会が催され、同19年には丸山教信者は実に138万人に及んだと言われています。このように飛躍的な発展を遂げた丸山教でしたが、国家的な弾圧などのために明治20年代中頃には、その勢いも急速的に衰え始めました。
そこで一方では、当時の報徳社運動と連携して、勤勉・倹約を強調する信仰へと変化をしていったわけです。現在、丸山教は一時の信者数ほどではありませんが、平和主義を教義にかかげて原水爆禁止運動を信仰の実践として、その活動を続けています。
さて、丸山教三代管長伊藤六郎兵衛(本名は平質)は、布教活動のかたわら、俳句や郷土研究にも意欲的に取り組み大きな足跡を残しています。葦天と号して、俳句に親しみ「とくさ」に加入、同門には佐藤惣之助らがおりました。特に惣之助との親交は深かったようで、昭和17年急逝した惣之助のために、惣之助の句を刻んだ碑を本院境内の庭先に建立しました。そして、この碑を「師弟の句碑」と呼んでます。
この他にも、親交のあった北原白秋が作詩した「多摩川音頭」の詩碑なども、本院境内にあります。
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