旧山下家住宅
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- 更新日:
旧山下家住宅 1棟
建築年代
江戸時代後期
規模
桁行18.2m 梁行11.8m
構造形式
切妻造、茅葺、一重三階
所有者
川崎市
所在地
多摩区枡形7-1-1
川崎市立日本民家園内
指定
県指定重要文化財 昭和47年11月24日指定
解説
巨大な切妻屋根を持つ民家として親しまれ、かつては飛騨白川村全域に分布していた合掌造も、集落としての景観をとどめるのはわずかに荻町地区だけとなってしまった。山下家は白川村字御母衣にあったが、御母衣ダム建設のため水没することになったので、川崎市の千葉建三氏が入手し、川崎に移築して一時料亭として使用していた。昭和44年に民家園に移されたが、園内の休憩所として使用するために全面的な復原は行われておらず、またすでに移築の経験を持つために、当初の形態が不明な箇所もある。
白川村の合掌造は一般にきわめて規模が大きく、部屋数も多い。そしてそこでは家父長を頂点とする大家族の生活が営まれていた。飛騨の山あいは地味に乏しく、耕地が限定され、山仕事と養蚕が主たる収入源であった。そのため次男、三男が成長して一人前の大人になっても分家独立して一軒の家を構えることは難しい。その結果が多くの家族の生活をひとつ屋根の下に抱え込む、壮大な合掌造の成立であった。
急勾配の屋根裏には何層にも床が張られ、2階3階が造られている。しかしこの部分は居住空間ではなく、養蚕のための換気と採光が行われる。特徴ある合掌造の外観は、このように養蚕の便のために生み出された形なのである。また農耕地が少ないために、農家特有の、農作業のための広い土間というものはない。
旧山下家の現状は妻側中央部を出入口としているが、本来の出入口は平側に二ヶ所あり、うちひとつはウマヤの入口である。床上の中心であるオマエは三間四方(18畳)の大きな部屋で、中央に大きな囲炉裏が切ってある。背後のダイドコロにも同じく囲炉裏があり、ここは家族の食事や団欒のための部屋である。これに対しオマエは大家族を統率する家父長の部屋で、チョーダとの間には押板を設けて威儀を整えている。土間の入口からオマエを横切らずにダイドコロへ行き、あるいは上階へ昇れるように、オマエとウマヤの間にシャシと呼ばれる4尺幅の廊下を設け、ここに階段を置くのもこの地方独特の形式である。オマエに続くスエノデイ・ヒカエノデイ・デイの3室は畳敷の続き座敷で、オマエよりも床を一段高くしている。妻側奥のデイが主客室で、正面には幅12尺、奥行3尺の、仏壇を置くための床の間状の装置が作られ、床の間はこれと直交するチョーダ境に設けられる。真宗の勢力の強かった当地方では仏壇を置く場所や仏間が重要な位置を占めているのである。
チョーダは寝室で閉鎖的に作られ、入口はダイドコロ側一ヶ所のみである。狭い土間は前側がウマヤで、その背後にウスナワ、ミズヤが続く。ウスナワは農作業の場であり、板敷の例と土間の例とがあるが、当家は後者である。ミズヤはダイドコロに続いており、水舟を置いて外から水を引き、またナガシなどが置かれた。
山下家の建設年代を示す資料はないが、18世紀末から19世紀初め頃の建築と考えられている。また同じ御母衣より岐阜県の下呂温泉に移築された旧大戸家住宅(国指定重文)は天保4年(1833)の建築で規模・間取りともに山下家にたいへんよく似ているから、当家は幕末期白川村の標準的な上層農家の造りとみてよい。
旧山下家住宅(現状)
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