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小沢城跡

  • 公開日:
  • 更新日:

空から見た小沢城跡

住所

多摩区菅仙谷1-4

交通案内

JR南武線・京王相模原線「稲田堤駅」下車、徒歩17分

地図

解説

 川崎市の西北端、稲城市の市境を接する丘陵上に小沢城跡はあります。『新編武蔵風土記稿』の伝えるところによると、鎌倉時代初頭の小沢城は、小沢小太郎の居城であったようです。小沢小太郎は源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子で、この地域の支配にあたっていたものと考えられます。
 丘陵地形が天然の要害を形づくっているこの地は、鎌倉道が通る交通の要衝(ようしょう)で、多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になりました。なかでも、鎌倉時代末の元弘3年(1333)、鎌倉討幕のために挙兵した新田義貞の軍勢が、激戦の末、幕府軍を打ち破って鎌倉侵攻の突破口を開いた分倍河原(ぶばいがわら)合戦は有名です。
 また、南北朝時代に入ると、観応2年(北朝の年号)・正平6年(南朝の年号)(1351)に足利基氏が、小沢城に籠(こ)もった足利直義の軍勢を攻め陥(おと)した戦い、さらに戦国時代にいたっては、北条早雲らが山内上杉顕定を破った合戦などがあり、後北条氏と上杉氏との勢力争いの接点となっていました。
 享禄3年(1530)、武蔵最大の支配力を持つ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張って、これを迎え撃ち撃破しました。これが北条氏康の初陣で、世にいう小沢原合戦です。
 現在、小沢城跡は緑地公園として保存されており、その中には空堀や物見櫓(やぐら)、土塁などと思われる城の遺構が残っています。これらの遺構は室町時代に築かれたものであろうと考えられます。また、ここには「城」「城下(しろした)」「おきの鍛治屋(かじや)」などの地名も残っていて、小沢城が居館・居城であった頃のなごりを今に伝えています。

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