旧佐々木家住宅
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旧佐々木家住宅 1棟
附
寛保三亥家普請人足諸入用帳 1冊
延享4年座敷普請入用覚帳 1冊
建築年代
江戸時代〔享保17年(1732)〕
規模
桁行24.7m 梁行10.0m
構造形式
寄棟造、茅葺(一部石置板葺)、一部中二階
所有者
川崎市
所在地
多摩区枡形7-1-1
川崎市立日本民家園内
指定
重要文化財 昭和42年12月11日指定
解説
佐々木家住宅の旧所在地である八ヶ岳の東、千曲川の流れに沿った長野県南佐久郡八千穂村は山あいの高冷地で、決して豊かな土地柄ではなかった。佐々木家は旧上畑村の名主を交替で勤める有力農家であった。当家には普請に関する古文書が多数伝えられ、それによって現主屋の新築に至る経緯から、その後の移築、そして増築の過程がかなり克明にわかる、きわめて珍しい例である。
享保16年(1731)、当家より代官所宛に、家屋が破損したので古材を用い、また不足の分は自山の唐松を伐り出して新築したい旨を記した「普請願書」が提出された。この願い出は許可され、早速普請に取りかかったものと思われるが、現主屋を見る限り、主要部材に古材は用いられていないから、決して贅沢な家屋でないことを強調するためにこうした表現が使われたのであろう。ところが新築10年後の寛保2年(1742)、千曲川の大氾濫によって上畑村は大きな被害を受け、その結果村をあげて山寄りの高台に移転することになった。佐々木家は幸い流出を免れたが、翌年他の村民とともに新しい土地へと移転した。この時、主屋は解体して移築したようである。そして延享4年(1747)に座敷の妻側に2室続きの客座敷を増築した。民家園への移築にあたってはこの延享4年の状態に復原されている。
さて、創建当初の規模は現状からザシキ及びオクザシキを取り除いたものと考えればよい。つまり床上4室からなる整形4間取(田の字型平面)を基本としていた。オカッテも現在のように広くはなく、おそらく囲炉裏を中心とした後半部だけが土間に張り出していたものと想像される。したがって今のナカノマが当初の客座敷で、その妻側には床の間が設けられていた。そして延享4年の増築工事によって接客空間が格段に充実する。つまり増築されたオクザシキには床の間のほかに違棚が設けられ、そしてナカノマからザシキ、オクザシキとL字型に配置された3室からなる接客の場が形成された。こうした形式は鍵座敷と呼ばれ、江戸時代後期の東日本の上層農家で多くみられる形式であるが、当家は南佐久地方における鍵座敷成立の時期を明らかにするものとして貴重である。なお、客座敷に付属する形で上便所や風呂場が設けられたのは、当家が名主という立場上、代官所の役人などを接客する機会が多かったことを示すのだろう。
増築の結果、桁行は14間という長大なものになった。屋根は茅葺の寄棟造だが、土間の妻側は兜造にしている。兜造は群馬県や埼玉県西部など、養蚕の盛んな地方に多くみられるが、佐久地方の兜は厩の上部を下男部屋などに用いるために中2階を設け、そこに光を採り入れるための工夫であったから、これらとは少々系統を異にしている。また、床上部の前面及び背面には石置き板葺屋根の庇を設けている。
当家の構造上の特徴は、差物を多用して柱の省略がかなり進んでいることである。特にオカッテとチャノマ・コザシキの境には長さ4間という長大な差物を用いており、これは他の八千穂民家にも見られない特色である。
以上のように、佐々木家住宅は創建から移築・増築までの過程が詳細に判明する数少ない民家であり、また当初の南佐久地方の最も進んだ間取り及び構造技法を有する、たいへん貴重な民家である。
(注)移築については「寛保三亥年家普請人足諸入用帳」(川崎市蔵、附指定)、増築については「延享4年座敷普請入用覚帳」(川崎市蔵、附指定)に詳しい。
旧佐々木家住宅平面図
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