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サンキューコールかわさき

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終了した企画展示

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(館内展示)企画展「あなたに伝えたい記録と記憶―公文書館所蔵資料から―」

第16回 石井泰助とその時代~近代川崎の発展過程~

【開催期間】令和5年10月1日(日)~令和6年3月31日(日)まで

慶応元年(1865)5月10日、東海道川崎宿の材木商「吹田屋」(石井家)の長男として石井泰次郎は生まれました。

石井泰次郎とは、後の初代川崎市長・石井泰助のことです。
展示風景

今回は川崎市政100周年という節目にあたって初代川崎市長である石井泰助の動向から川崎の発展を考える展示を目指しました。

石井泰助は若くして川崎町会議員や川崎町長代理助役に就任し、やがて川崎町長に就任します。川崎町は工業地帯として発展していき、工場招致を積極的に行なったのが石井泰助でした。石井は川崎町の工業地帯化について「斯く相成つたのは、決して一人二人の力ではなく全く町民一致協力の賜である」(「横浜貿易新報」大正5年7月3日『川崎市史 資料編3 近代』372~374頁)と述べています。

また、川崎町の水道(上水道)敷設に積極的に取り組んでいた一人が石井泰助でした。川崎町における上水道の敷設は周辺地域にも影響を与え、川崎市制に繋がっていきます。
展示風景

大正13年(1924)7月1日、川崎市制がスタートします。しかし、約3か月間は正式な初代市長が任命されていませんでした。10月6日、川崎市役所にて市会が行われ、石井泰助が川崎市長第一候補者として選定されて正式に初代川崎市長に就任します。

石井泰助は昭和4年(1929)3月に病気を理由として辞任するまで川崎市長の重責を担っていました。
展示風景
石井泰助市長のイラスト

石井泰助の生涯や年表、石井の実績や川崎市長選挙の様子がわかる歴史的公文書、さらには石井泰助日記(複製)の解説などを展示することで、川崎に生き、川崎に尽くした人物の生涯を感じて頂けるように努めました。

第16回 企画展示ポスター

第15回 関東大震災と川崎の復興

【開催期間】令和5年4月1日(土)~令和5年9月30日(土)まで

大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてM7.9の大地震が発生しました。関東大震災です。

展示風景

日本列島では数多くの震災が発生してきましたが、関東大震災は近代の日本が遭遇した最大規模の震災でした。

展示風景

2023年は関東大震災から100周年になります。

節目の年にあたって今回の企画展示では、関東大震災に遭遇した市政が始まる直前の川崎地域について歴史的公文書等を用いて当時の様子を見てみました。

川崎地域のなかでも川崎町・田島町・大師町は特に被害が大きかったようです。一方で、火災被害は東京・横浜に比べて少なかったといいます。川崎町では富士瓦斯紡績・東京電気・日本蓄音器商会、田島町では日本鋼管・浅野セメント工場、御幸村では明治製糖、などの大工場の被害も甚大なものでした。川崎の復興については、震災発生後でも休みなく店を開けているところもあったようですが、銀行・会社・工場は9月中に再開したところもあり、概ね12月中までには生産を再開したようです。
展示風景

展示では、大震災の混乱から秩序を保つために引き続き軍隊の駐屯を希望する旨を伝える戒厳司令官宛て川崎町長の申請書、中原村の震災直後の様子を伝える当時の回顧談などの資料を展示しました。

私たちが直面してきた震災、そしてこれからも直面していくだろう震災について、この企画展示を通して考えて頂ければとの思いで開催いたしました。

第15回 企画展示ポスター

第14回 政令指定都市としての川崎市

【開催期間】令和4年10月1日(土)~令和5年3月31日(金)まで

令和4年(2022)、川崎市は政令指定都市に指定されて50周年を迎えました。

展示風景

政令指定都市とは、法定人口が50万人以上であり、政令で指定された市のことです。

昭和31年(1956)に大阪・名古屋・横浜・神戸・京都・北九州市が指定されたことに始まり、川崎市は札幌市・福岡市と共に昭和47年(1972)に指定都市となりました。指定都市になると、それまで県が直接扱っていた市民生活に関係の深い事柄(社会福祉・保健衛生・都市計画・道路管理・教育など)が市へ移されることになり、許可や監督などの権限も市長に移され、指定都市になることで住民の自治権の拡大と行政運営の民主化につながりました。また、行政区画が設置され、川崎市では川崎区・幸区・中原区・高津区・多摩区の5区が成立しました。

本展示の趣旨は、政令指定都市に指定されることの意義を50周年の機会にもう一度考えてみようということです。
展示風景

政令指定都市に指定された当時の川崎市の様子を収めた写真や区役所開設記念式典関係写真集、官報、指定都市認定に向けた要望書、区名募集のしおり、パンフレット、祝賀パレードのポスター、などを展示しました。

展示風景

令和4年現在の川崎市は特別自治市を目指しています。

特別自治市とは、川崎市が神奈川県の区域外となり、それまで神奈川県の機能だったことを全て移譲することで権限と財源を川崎市に一本化する制度のことです。

政令指定都市・川崎市の成立過程を解説した本展示により、現代における「政令指定都市」から「特別自治市」への変化を目指す川崎市のこれからに注目して頂けていたら幸いです。

第14回 企画展示ポスター

第13回 1930年代を考える~世界・日本・川崎~

【開催期間】令和4年4月1日(金)~令和4年9月30日(金)まで

アジア・太平洋戦争における日本の敗戦は多くの命が犠牲となりました。なぜ、日本は戦争へと突き進んでいったのか。この問いは、研究者のみならず我々日本人が戦後一貫して問い続けてきた問題でした。

展示風景

日本は明治維新以後、欧米列強を中心とする国際秩序に参入し、日清戦争・日露戦争での勝利などによって国際的地位を確立していきました。1919年、第一次世界大戦の戦後処理をめぐるヴェルサイユ講和会議では戦勝国として参加し、国際連盟では常任理事国の一員となりました。国際化の時代において日本は順調にその地位を確立していったように見えます。しかし、1930年代の日本は軍縮や国際協調が謳われていく時代にあってその流れに逆行するかのように戦争へと向かっていくことになります。

展示風景

1930年代は日本が戦争へ突入していったという点からも史実を押さえたうえで検討・考察していくべき時代であると考えられます。

今回の企画展示では、そのような目的意識のもとで世界の動向を踏まえ、さらに日本の動向を確認し、そのとき川崎はどのような状況であったのか、歴史的公文書を読んでみることで1930年代を考察して頂けるように展示設定を行ないました。
展示風景

第13回 企画展示ポスター

第12回 川崎市が「生まれた時代」~大正時代の社会と生活~

【開催期間】令和3年10月1日(金)~令和4年3月31日(木)まで

タクシー、ラジオ、キャラメル、カルピス、コーラ…。これらは、すべて大正時代に誕生したものです。約15年間という短い時代でしたが、現代にもつながる大衆文化が作られたことは大正時代の特色を表していると言えるでしょう。近年では、大ヒットマンガ『鬼滅の刃』によって注目が集まりつつある時代にもなっています。さまざまな文化が誕生した大正時代ですが、実は川崎市も大正時代に成立しています。

 快適追求・大量消費を指向する現代生活の源流としてよく取り上げられる大正時代ですが、今回の企画展示は、実際に大正時代の川崎市はどのような様子であったのか、主に(1)大正天皇の即位・関東大震災・初代市長誕生など川崎市政のはじまりと、(2)大正時代の日々の人々の生活・文化(当時の人口や生産物などの統計などから当時の生活をみる)の2点に焦点をあてて、当館所蔵の歴史的公文書等からその様子を見て頂くようにしました。
展示風景

第12回 企画展示ポスター

第11回 マッチラベルに見る昭和の川崎―内藤教雄家旧蔵資料から―

【開催期間】 令和3年4月4日(日)から令和3年9月30日(木)まで

 近年、街の記憶を後世に伝える素材として、マッチラベルへの注目が高まりつつありますが、当館でも昭和の高度成長期のマッチラベルを約500点所蔵しています。

 これらのマッチラベルは、平成27年、内藤教雄家(中原区)から寄贈された資料のなかに含まれていたものです。

 今回の企画展では、そのなかから川崎市とその周辺のマッチラベル(プリント)、シリーズ物のマッチラベル(現物)、全国のホテルのマッチラベル(現物)を約200点展示しました。

展示風景

川崎市とその周辺のマッチラベル

 コロナ禍にもかかわらず、多くの方々にご来館をいただき、「面白かった」、「かつて夫婦で営んでいた店舗のマッチラベルが展示されているのを見て、胸が一杯になった」、「無料で見れるのがありがたい。図録があれば是非欲しかった」などといった暖かいご感想をいただきました。

 この機会に、当館を初めて訪れたという方も少なくなかったようです。今後も当館所蔵の資料を活用して、魅力ある企画展を開催していきたいと思います。

展示風景

シリーズ物のマッチラベル

第11回企画展ポスター

第10回 ”交通空白地”をなくせ!~幻の川崎モノレール計画~

【開催期間】 令和2年10月1日(木)午後から令和3年3月31日(水)まで

 川崎市北部地域は、都内や横浜市に通勤する人びとが住むベットタウンに位置づけられます。しかし、そこはかつてより交通の不便さが問題とされ、市を縦断する交通手段の強化が求められてきました。縦断交通を検討する動きは、住宅開発の進む市西北部と臨海工業地帯を結ぶものとして、昭和38(1963)年の『川崎市総合計画書』に登場します。

 川崎市は都市交通審議会答申・運輸政策審議会答申などに基づき、縦断交通の手段を継続的に検討してきました。昭和49(1974)年、伊藤三郎市長のもとで策定された「新総合計画」は、この縦断交通に関連して、モノレールの設置を本格的に模索していたことはあまり知られていません。

 令和2年度後期(2020年10月1日~2021年3月31日)の企画展は、幻となったこのモノレール計画をテーマに、館所蔵の歴史的公文書や市政資料を展示しました。川崎市のモノレール計画は如何なる交通体系を模索し、なぜこの時代にモノレールが求められたのか、時代の一端を探りました。

第10回 企画展パンフレット

第9回 家が足りない!~工都川崎の住宅事情~

【開催期間】 令和2年3月10日(火)から令和2年9月30日(水)まで

 2019年5月、川崎市の人口が神戸市を抜いて政令市第6位となりました。現在、市の人口は約150万人ですが、明治時代末期に川崎の工業化が始まるまで、川崎町の人口は5000人余りに過ぎませんでした。その後、工場が増えるにつれて人口も急増し、それに伴って生じる深刻な住宅不足は川崎市を常に悩ませてきました。

 本展示では、川崎市でどのような住宅不足解消策が行われたのか、明治時代末期から戦後の復興期にかけての住宅供給の試みを取り上げました。大変多くの市民の方にご来館いただき、私たちの住む街がどのように形成されてきたのか、関心を持っていただくきっかけとなる展示となりました。

第9回 企画展パンフレット

第8回 戦時体制下における川崎市民の生活―宮野憲明家所蔵資料から―

【開催期間】 令和1年10月1日(火)から令和2年2月29日(土)まで

 戦時体制下における川崎市について、軍需工業都市としての側面に注目が集まりますが、川崎市域には臨海部の工業地だけではなく、多くの農村部も含まれていました。工業化に伴う急激な人口増加や、それに伴う労働問題などを抱える都市部だけではなく、こうした農村部の人々の暮らしにも目を向ける必要があります。

 本展示では、岡上村の宮野憲明家所蔵資料から、戦前~戦中にかけての村の暮らしに注目しました。「1.戦前の村の暮らし」「2.戦時下の村の暮らし」の二部構成で、当時の状況を詳しくみていきました。特に、前半では岡上村をはじめとする村内の葬儀や町内会の役割について、後半では村内の配給の資料や標語などから当時のより具体的な生活について解説しました。

 なお、本展の開催にあたり、貴重な資料を当館に寄託してくださいました宮野憲明氏、関連写真の使用をご快諾いただきました宮野薫氏ならびにご家族の皆さまのご協力に厚く御礼を申し上げます。

第8回 企画展パンフレット

第7回 移り行く時代と川崎市歌―市歌の変遷とその内容―(歴史的公文書特集1)

【開催期間】 平成31年4月4日(木)から令和1年9月29日(日)まで

展示風景

 本展示は、歴史的公文書を使用し展示を開催する「歴史的公文書特集(通称:歴公特集)」の第一回目の展示です。
 この歴公特集では、川崎市公文書館職員が当館で所蔵「歴史的公文書」のなかから見つけた興味深い内容の資料を紹介する企画展です。
 記念すべき第一回目の歴公特集は、川崎市歌をテーマにとりあげました。
 川崎市歌は、市制10周年を記念して、昭和9年(1934)に作成されました。作詞は公募から選ばれた小林俊三氏が作成し、作曲は川崎市が高階哲夫氏に依頼しました。その後、昭和44年(1969)と市制80周年事業として平成16(2004)に市の現状にそぐわないという点から歌詞を改訂しました。本展示では3回にわたって改訂された川崎市歌の歴史的変遷を概観し、主に昭和44年改訂の際に作成された資料から改訂された状況やその過程をみていきます。
 令和5年(2024)の市制100周年を見据え、市制の周年を節目に作成され、改訂された川崎市歌の歴史変遷を知ることで、より身近な歌として感じていただければければ幸いです。

第6回 川崎市内における戦時下の訓練

【開催期間】平成30年7月1日(日)~平成31年4月4日(木)まで

展示風景

 つい最近まで、北朝鮮のミサイルに備え、「全国瞬時警報システム(Jアラート)」を用いた訓練を行うというようなことをよく耳にしました。現代を生きる我々にとって、集団で行う訓練と言えば、学校や会社での防災訓練などが思い浮かびますが、歴史を振り返ってみると、太平洋戦時下においては、さまざまな集団訓練が行われていました。今回は、当館所蔵資料をもとに、川崎市内において行われていた戦時下の訓練について注目したいと思います。

関東防空演習実施ニ関スル件の画像

「関東防空演習実施ニ関スル件」
(歴史的公文書1-2-K-5『防空演習ニ関スル書類』)

 航空技術の著しい発展や諸外国からの空襲を想定し、軍は守備態勢の整備に着手しはじめました。しかし当時、軍内から官民に至るまで防空には無関心でした。そこで軍官民合同で主要都市の防空演習を行い、被害を抑えるために民防空の組織を作って訓練を行い、国民一人一人が防空の重要性を認識し、理解をもたせるようにしました。防空訓練は、昭和3(1928)年に大阪で行われて以降、各地で行われていきました。川崎市を含む関東では、昭和8(1933)年に「関東防空演習」という形で広い地域で行われました。

壮丁皆泳必成訓練実施に就いての画像

「壮丁皆泳必成訓練実施に就いて」
(歴史的公文書A432『庶務文書綴(雑件之部)』)

 徴兵検査に合格した男性には、水泳の訓練も課されました。今回展示した資料には、「泳げない壮丁(徴兵義務のある男性)を皆無にしやうと考へ」や「泳げないことは今までは個人の問題でありましたけれ共、之からは国民の一人として特に泳げる様になつておくことが必要」などの文言がみえます。戦時下のさまざまな訓練を現代に伝える貴重な資料です。
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第5回 絵図・地形図・写真からみる二ヶ領用水

【開催期間】平成30年1月4日(木)~平成30年6月30日(土)

 川崎の歴史といえば、まず思い浮かぶのは二ヶ領用水ではないでしょうか。
 家康の命を受けた代官小泉次大夫吉次によって、慶長16(1611)年、多摩川に沿って二ヶ領用水が誕生しました。以降、農業用水や工業用水として、用途は時代によって変化していきますが、約400年もの間、川崎の地と人々の生活を支え続けている二ヶ領用水。
 今回は、そんな川崎を支え続けきた二ヶ領用水について、江戸時代の絵図・明治時代の迅速測図・現在の河川図を比較しながら、その移り変わりを見ていきたいを思います。また、当館が所蔵している昭和末~平成初にかけての二ヶ領用水の風景を撮影した写真も合わせて紹介したいと思います。

「登戸村麁絵図」(旧支所・出張所(登戸村関係)所蔵文書)

 麁絵図とは、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図のことで、粗絵図ともいいます。中野島に水の取入口があり、そこから登戸村に入ります。登戸村に設置された堰は三つで、分水されている様子が分かります。

「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」

 迅速測図とは、当時の日本の参謀本部・陸地測量部が国土の詳細な地図の整備を早急に進めるため、正規の三角点の成果を基準とするのではなく、簡易的な測量法によって作成されたものです。簡易的といっても、等高線による詳細な地形表現のほか、巧みな彩色が施されるなど、日本近代地図の最高傑作ともいわれるほど見事な地図です。正式名称は「第一軍管地方二万分一迅速測図」といい、川崎や横浜周辺の地域は明治14・15(1881・82)年頃に作成されました。取水口や河川との合流地点等の様子が細かく分かります。

「平瀬川と二ヶ領本川の合流点を上流側から」(旧川崎市土木局河川部河川管理課所蔵写真)

 昭和期の懐かしい二ヶ領用水の風景を昭和50~60年代に撮影された写真から眺めていきたいと思います。これらの写真は、河川の整備改修の事前調査として撮影されたものであり、二ヶ領用水の各地点が詳細に記録されています。

第4回 川崎市域の「茶業」―明治期から現在まで―(後編)

第3回 川崎市域の「茶業」―明治期から現在まで―(前編)

【開催期間】平成29年1月4日から平成29年6月30日まで(前編)

        平成29年7月1日から平成29年12月29日まで(後編)

現川崎市域では、茶の「流通」はおこなわれていますが、茶の「生産」はおこなわれていません。しかし、明治期から昭和中期までは、現川崎市域の各所で茶の「生産」「流通」がおこなわれていました。これは、安政6年横浜開港を機に茶が輸出されるようになり、今まで茶の「生産」が盛んでなかった地域でも茶が「生産」されるようになったことがきっかけになっています。

 このように、現在の状況からは想像ができないような歴史を当館所蔵の歴史的公文書、複製古文書から掘り起こし、市民や市外の方に知ってもらいたいと考え、前編では明治時代を、後編では大正時代から現在までの現川崎市域でおこなわれていた「茶業」を紹介します。

「橘庶第1037号達」
(歴史的公文書1-2-D-1「明治23年 達書(御幸村)」)
明治23年6月5日付で橘樹郡役所から御幸村役場宛てに出された達。全国的に養蚕や「茶生産」・「製茶」が発展していることをうけ、桑茶の成長具合を取調べの上報告せよとの内容が記されています。

「日記 三拾六巻目」5月17~23日条
(当館所蔵「鈴木快輔家文書(複製本)」[「市史」60-22-6])
原資料は個人蔵。
鈴木藤助の記した「日記」のうちの明治10年5月14日の途中から23日の途中までの部分。所々に「茶こしらへ」とあり、製茶がおこなわれていることがみうけられます。

第2回 昭和期の市営交通―川崎市営電気軌道―

【開催期間】平成28年6月21日(火)~平成28年12月28日(水)

平成28年3月26日、JR南武線に小田栄駅が設置されました。

 現在市内では鉄道事業者6社(JR東海、JR東日本、東京急行電鉄、京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王電鉄)により15路線が運行していますが、かつて市も交通事業として市営電車(軌道電車・トロリーバス〔無軌道電車〕)を運行していました。

 今回の展示では、当館所蔵歴史的公文書、写真などの歴史資料を用い、市営電車に焦点を当てていきます。


市電は昭和44年(1969)3月まで運行していた。写真は市電廃止時のデコレーションされた車両。

「川崎市軌道建設事務所からの引継書」
(『昭和19年 市役所事務引継書』/請求番号:S19-永02)
 川崎市長が交代するにあたり、引継書を作成するため各部局から簿冊目録や、現行の事業進捗状況などがまとめられた。
 市電建設を担った川崎市軌道建設事務所からは、現在の購入車両数や、神奈川県や国へ提出する軌道建設許可申請状況を報告している。

第2回 企画展パンフレット

第1回 知られざる本庁舎の歴史

【開催期間】平成27年12月8日(火)~平成28年5月31日(火)

 川崎市役所本庁舎は、昭和13年(1938)に建てられ、増築・改築を加えながら現在に至りますが、このたび耐震性・老朽化の問題から新庁舎が建てられる運びとなりました。

 そこで本展示では、当館所蔵歴史的公文書、写真などの歴史資料を用い、本庁舎の歴史を振り返ります。

昭和9年の市庁舎

昭和9年(1934)の頃の市庁舎。関東大震災により役所が倒壊し、旧川崎尋常高等小学校の古材で臨時に立てられました。

市役所位置臨時変更ノ件

「市役所位置臨時変更ノ件」
(『昭和11年 文書々類』S11-永02)
現市役所本庁舎を建てるにあたり、一部部署を除き、移動することが議会で可決されています。

第1回 企画展パンフレット

お問い合わせ先

川崎市総務企画局コンプライアンス推進・行政情報管理部公文書館

住所: 〒211-0051 川崎市中原区宮内4丁目1番1号

電話: 044-733-3933

ファクス: 044-733-2400

メールアドレス: 17koubun@city.kawasaki.jp

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