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事業承継 事例紹介(第11回~)

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川崎市青年工業経営研究会(二水会)外部リンクの会員企業など市内中小企業の事業承継(親族内承継、従業員承継、M&A等)の実例を紹介しています。

第11回 株式会社ナガシマ製作所(川崎区)

二刀流経営で“新しい風”を起こす

  • 突如の登板

 今シーズンから「二刀流」の復活に挑んでいる米大リーグ・ドジャースの大谷翔平選手ではないが、精密板金加工を柱とする各種加工ニーズの受託・製造とともに、自社開発した多機能小型券売機の販売展開でもって業界の大競争時代を勝ち残ろうとしているのがナガシマ製作所(川崎区南町)だ。神奈川県にある本社と岩手県の東北花泉工場の社員たちが二人三脚となって、モノづくりのフィールドであくなき挑戦を続けている。
 そんな同社を、2002年から率いるのが長島章浩社長である。父の長島利雄氏が1962年に興したプレス加工業の会社は、折からの高度経済成長の追い風を受けて業容を順調に拡大していった。だが、そんな最中、利雄氏が89年に、不慮の事故により亡くなってしまった。
 急遽、妻であり現社長の母である幸代氏がリリーフとして登板することになった。本格的な後継ぎとしては、当時、専務を務めていた章浩社長の兄がやがて経営のバトンを受け取るという算段だった。
 ところがその後、会社の経営戦略を巡って社長と専務が対立する事態が起き、2002年、専務の兄はナガシマ製作所の経営から身を引いてしまった。そこで、白羽の矢が立ったのが次男で現社長の章浩氏であった。
 「会社は兄が継ぐもの」と考えて疑わなかった章浩社長は、大学を卒業後、金属加工業とはまったく関わりのない土木関連会社の若きトップとして、現場の職人たちを束ねていた。気難しい人も少なくない職人軍団をうまく御してきた経験は、ナガシマ製作所の3代目に急ぎ就任した際に大いに役立ったが、言うまでもなく、それだけでは社長業は務まらない。
 異業種である製造業。経営の機微に触れる部分に関しては相談役に退いた母親から、経営者としての心構えや立ち振る舞いなどについては、川崎市内に拠点を構える中小企業の後継ぎ者や若手経営者らが集う川崎市青年工業経営研究会(通称・二水会)での「腹を割った」交流を通じて体得していった。中でも二水会で知り合った業務用循環濾過装置などを手掛けるショウエイ(幸区新川崎)の辻永社長からは、現在の二刀流経営につながるヒントと多大なる影響を受けたと振り返る。

  • 未来への布石

 その“教え”が、象徴的に表れたアクションが冒頭に触れた下請け専業からの業態転換を目指した券売機の自社開発・製造・販売のスタートであり、好不況にかかわらずビジネスチャンスは逃さないという考えに基づいて断行した岩手県での新工場建設であった。かつては、ある電機メーカーから下りてくる仕事が大半を占めていた売り上げ構造も、積極的な新規顧客の開拓を通じて依存度を下げた。いずれの挑戦も、会社の足腰を強めて自主独立の経営基盤を固めようという強い意志が下支えした。
 幸い、足元の業績は堅調に推移しているだけでなく、自社開発したQRコード決済機能付きタッチパネル券売機「FMC-27VA」は19年、高品質・低価格を徹底追求した卓上小型券売機「FMC-156V」は24年の「川崎ものづくりブランド」認定をそれぞれ取得する栄誉にも輝いた。そうした中、章浩社長が思い描き始めているのが長男で現在、製造部システムエンジニアとして働いている長島大輝氏へのバトンタッチである。
 これまでの同社の代替わりが、いずれも慌ただしい環境下で行わざるを得なかったことを踏まえ、今度こそ、万全の態勢のもとで継承を実現したいという考えがあることはあえて語るまでもないだろう。父のこうした思いに大輝氏自身も、「自分がここまで育ててもらえたのもナガシマ製作所という会社と、従業員の人たちの頑張りがあったからこそ」と、自身が置かれた立場と責任の重さを語る。
 果たして、3代目が大きく変えた会社を4代目がどのようにして「二刀流」を極めていくのか、大いに楽しみである。

(かながわ経済新聞 令和7年4月号 第11回かわさき発・事業承継秘話『未来へのバトン』より)

第12回 日崎工業株式会社

信念貫き革新を重ねていく

  • 苦境を受け止める

 「確たる信念を持っている人は、不景気の時ほど儲ける」とは、経営の神様の異名を持つ松下幸之助が遺した言葉である。好況時にもうけることは誰でもできるが、そんな折には他人の何倍ももうけ、不況時でもしたたかに利益を出すのが本当のプロ経営者だと説いた。
 実際、幸之助は昭和恐慌の時、工場を操短して従業員に半日の休暇を与える一方で、志のある人は工場の売れ残りを友人・知人に売ってきてもいいと伝えたそうだ。首切りや減給の通告ではと恐れていた従業員たちは、この意外な申し出に感激し、在庫を抱えて散ったところ、またたく間に倉庫は空っぽに。工場のフル操業がたちまち再開されただけでなく、松下電器は不景気を逆利用してライバルに大きく差を付けることができたという。
 事業環境の悪化に直面するたびに経営のあり方を柔軟に変え、売り上げの回復を図ると同時に業容を拡大してきたという点では、“メタルワーク”のプロ集団を自認する日崎工業(川崎区)も、創成期の松下電器と相通じるところがある。
 1958年に初代社長の三瓶毅氏が東京・浜松町で立ち上げた板金加工の三瓶製作所は、工場の拡大が必要となって67年に川崎市に移転。日本の「日」と川崎の「崎」を取って現社名に改めた。金属加工の技術には早くから定評があったものの、大きく花開いたのは2代目社長・三瓶修氏が2007年に会社の経営を継いで以降だった。

  • 3年後の約束

 幼い頃から自宅を兼ねた工場で機械いじりに親しんだ長男の修氏は、学業を終えると二輪車部品メーカーに就職。好きなバイクとモノづくりを両立できるとあってたちまち仕事に夢中になった。
 ところが3年ほどたった頃、「家業を手伝ってほしい」と父から告げられた。修氏は「1週間だけ」という父との約束で北海道へのツーリング旅に出かけた。しかし、旅は最終的に1週間では終わらず、北米大陸縦断にまで発展。日本に帰り、実家で腰を据えて働き始めたのは約束から3年後のことだった。
 ただし、「急がば回れ」という常套句があるように、日崎工業の人間となってからは、考え方や立ち振る舞いを含めて「転換」が早かった。板金加工による看板製作などを請け負う既存のサイン事業だけでは飽き足らず、イベントや展示会の造作物を企画や設計の段階から主体的に携わる提案営業を開始すると、競業他社にはないビジネスモデルが支持されて大きな手応えを得た。ほどなくして売り上げが伸びていった。そして、07年に拡大路線の環境下で事業承継を果たした。
 ところが運命の女神は意地悪である。新社長の力を試すかのように、今度は試練を与え始めた。08年のリーマンショックでは業績の伸びが鈍化し、続く11年の東日本大震災ではイベント関連の需要が半減した。
 そこで修氏は、先代が全国7カ所まで広げていた製造拠点を川崎の1工場に集約するという大ナタを振るい、併せて導入した業績連動給制度で大失敗という副作用を認めるや否や、今度は「理念経営」へのシフトと「社員第一主義」の実践にかじを切った。

  • 始まりは二水会

 一連の経営立て直しに当たっては、川崎市青年工業経営研究会(通称・二水会)での活動を通じて知り合った若手の二世経営者間の人脈と、神奈川県中小企業家同友会における経営理念や経営方針づくりに関する学びの経験が役立った。
 実際、危機をバネにした改革の効果は大きく、社員の若返りと定着率の劇的な改善が図れたうえに、経営基盤も財務を含めて再び安定した。
 20年から世界を襲った新型コロナ禍では売り上げに影響は出たものの、会社組織が筋肉質になった分だけ復元力も大きく、さらには、より経営の安定を求めてアウトドア事業やキッチンカー事業といった新規事業を生み出すトリガーとなった。
 ただし、経営者が会社を営んでいく上で最も重要なのは、幸之助が「信念」と呼んだものの存在だ。日崎工業が創業時から守り続ける「時代に必要とされるニーズを捉え、革新的な進化と共に一歩先の社会から必要とされる企業であり続ける」というポリシーは、確実に修氏へ受け継がれている。

(かながわ経済新聞 令和7年5月号 第12回かわさき発・事業承継秘話『未来へのバトン』より)

第13回 株式会社青木製作所

ずっと見てきた父の背中、俺の時代で会社を変える

 

 青木製作所(幸区)は2024年、創立85周年を迎えた自動車ブレーキ部品を柱とする老舗金属加工メーカーである。日本の自動車産業がまだ黎明期にあった1939(昭和14)年、初代社長の青木吉之助氏が立ち上げた。クルマの安全に直結する重要保安部品の切削技術に磨きをかけ、旧トキコ(現・Astemo)の指定協力工場として戦後、業容を大きく拡大した。
 77(昭和52)年に跡を継いだ息子の青木稔昭氏は、顧客の要望に応える形で宮城県内に工場の増設を重ねるとともに、品質マネジメントシステムの国際規格「ISO9001」の取得や、技術力のさらなる底上げを狙った社員研修センターなどを整備した。二代目トップによる一連の積極投資によって会社の足腰は強くなり、米リーマン・ショックや東日本大震災といった経営環境の激変に対しても高い強じん性を発揮した。

  • 不協和音は突然

 だが、どんな名経営者であってもやがて、時代や事業環境との間で不協和音が生じてくる時期がやってくるのは、避けられない世の摂理である。青木製作所の場合、それは「100年に1度」と言われる自動車産業そのものの転換だった。クルマの電動化とともに部品メーカーの立ち位置も根本から見直されるようになる中、世代交代による人心一新を求める声が大口取引先などからも寄せられるようになった。
 稔昭氏は、そうした周囲の「変化」を機敏に読み、「もう辞める」と漏らすこと、2回に及んだ。しかし、それでも実際にはポストを手放さなかったことから、3回目に辞意を表明したタイミングを捉え、次男で長らく自社工場の現場でモノづくりに携わった現社長の青木順氏が経営の座を引き継いだ。2013年のことだった。親子とはいえ、否、親子だからこそ両者の間にはその後、感情のわだかまりが長く残ったが、青木製作所の経営をアップデートさせるためには避けて通れない荒療治であった。

  • 先代の意地に苦しむ

 とはいえ、そんなバトンタッチ劇であったため、順氏は、経営に関わる幅広い勉強を前任から教わることができず、イチからひとりで学んでいかねばならなかった。金融機関が主催する経営者セミナーに参加したり、友人・知人を介して会計や法務の専門家を紹介してもらったりと東奔西走する傍ら、川崎市青年工業経営研究会(二水会)にも参加し、「経営者同士でしか分からない悩みなどを話した」(青木順社長)。
 そうした学びと並行して、100人を超える従業員とその家族を養っていくため、率先して新規顧客の開拓にも精力的に挑戦した。原動力となったのは、父親の経営者としての人となりを長年見たうえ、その姿を反面教師に、「あぁなってはいけない」と誓った強い意志であったという。

  • 理想の事業承継を胸に

 そんな努力のかいもあり、青木製作所の足元の経営は堅調な推移を示している。順社長の治世は今しばらく続くことだろう。しかしながら、自動車産業を取り巻く変化は激しさを増す一方にある。完成車メーカーからの要望に柔軟に応えられることが、グローバル競争を勝ち残るための絶対条件となっている。
 このため青木製作所では、長男の健悟氏、次男の崇史氏を営業と工場の職にそれぞれ就かせながら、仕事を通じて帝王学と新たな経営の在り様を、OJTを通じて学ばせている最中だ。四代目社長の選出と就任は、まだ先のこととなりそうだが、逆に言えば順社長は、自身が体験できなかった理想的な事業承継の姿を、今度こそは確実に実現したいと願っているのかもしれない。

(かながわ経済新聞 令和7年6月号 第13回かわさき発・事業承継秘話『未来へのバトン』より)

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川崎市経済労働局経営支援部経営支援課事業承継担当

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