多摩川の渡し場跡の碑
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多摩川に橋が架かる以前には、多摩川を横断する手段として「渡船」が各地で行われ、物資や人を対岸に渡したり耕作のために使用するなど、「渡船」は流域の人々の生活に密着していました。
しかし、明治以降多摩川に橋が架けられるようになってきたことにより「渡船(渡し場)」は廃止され、その痕跡を確認することは年々難しくなっています。
NPO法人多摩川エコミュージアムの調査によると、多摩川では45箇所の渡し場跡が確認されています。
川崎市域では20箇所となりますが、うち2箇所は文献の記載のみで、場所が確定できていません。
この事業は、渡し場跡の表示板の設置やイベントを行い、これまで「渡し場」が担ってきた流域の歴史文化を後世に伝えることを目的としています。
渡し場跡の碑設置箇所
上菅の渡し
古くは矢野口の渡しといわれ、旧菅村と旧矢野口村の境から対岸の下石原とを結んだ。
明治には下流に移動し、上菅の渡しとなった。1935(昭和10)年に廃止。
下菅の渡し
昭和初期に下菅と上布田とで開設。「新渡し」ともいう。対岸調布の畑に通う作業渡しで、梨の出荷や肥ひき、稲田堤の桜見物にも利用された。1935(昭和10)年に廃止。
中野島の渡し
1885(明治18)年、旧中野島村と対岸の旧下布田駅、国領駅、上給村の四カ村で開設。対岸との往来、東京への野菜、梨、桃などの出荷、下肥の運搬などに利用。昭和10年代中頃に廃止。
登戸の渡し
江戸への往還にかかる重要な渡しであった。江戸時代はやや下流、明治になり上流に移り、終わりのころはここから対岸の和泉に渡った。1952(昭和27)年に廃止。
堰の渡し
堰と対岸の喜多見を結び、1907(明治40)年ころ始まった。
作場渡しのほか、近在の往来や東京への出荷、肥ひきに利用された。1935(昭和10)年に廃止。
宇奈根の渡し
洪水で村が分断され、右岸に飛び地(分村)が生まれた。耕作に通う作場渡しのほか、溝口と世田谷方面とを結ぶ交通にも役立った。1950(昭和25)年に廃止。
二子の渡し
二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。かつては大山詣りや江戸からの物見遊山客で賑わった。
タバコ、鮎、炭など相州の物産も渡った。1925(大正14)年、二子橋開通で廃止。
諏訪の渡し
旧諏訪河原村から対岸飛び地の向河原へ渡る作場渡しだった。
耕作に通う40軒の農家が共同で船を出していた。1925(大正14)年に二子橋の開通で廃止。
下野毛の渡し
江戸時代初期、洪水で下野毛村が分断され、飛び地が生まれた。対岸へ耕作に通うほか、神奈川と東京とを結ぶ交通にも用いられた。1955(昭和30)年に廃止。
宮内の渡し
大正初め頃、旧中原村宮内から対岸等々力に渡るために設けられた。
野菜などを東京市場へ出荷するのに利用された。1935(昭和10)年に廃止。
丸子の渡し
始まりは江戸時代初期とされ、江戸と平塚の中原を結ぶ中原街道にかかる渡し。
平塚のお酢や相州の物産も渡った。1935(昭和10)年の丸子橋架橋で廃止。
平間の渡し
平間道を通す渡しで、東海道の間道だった。野菜などを出荷する生活路でもあった。
1931(昭和6)年にガス橋の前身、ガス人道橋の架設で廃止された。
大師の渡し
1877(明治10)年に新設され、「新渡し」とも呼んだ。羽田とを結んで川崎大師の参詣客を乗せ、穴守稲荷への「大師の早船」も就航した。1939(昭和14)年に廃止。
羽田の渡し
地元では「六左衛門(ロクゼイモン)」の渡しと呼んだ。羽田への作場渡しであったが、川崎大師への参詣路にも利用された。1939年(昭和14)年大師橋の開通で廃止。
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渡し場跡の場所は「多摩川であそぼう!かわさき今昔あそびマップ」でご覧ください。
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