川崎市市制100周年PR広報紙~7区の歴史を振り返る~
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2024年、川崎市は市制100周年をむかえます。
その歴史を知るため、川崎市7区をぶらりと歩いてみました。
それぞれの区の昔の写真を手に、歩いて、見て、聞いて、感じて、発見したこと。
それは今に至る100年の発展の理由でした。
あなたの住んでいるまちの昔を知っていますか?
過去にはこれからの100年先の未来を考えるヒントが、きっとあるはずです。
広報紙は区役所等の市内公共施設等で配布しています。
川崎市市制100周年PR広報紙
目次
白黒写真カラー化プロジェクト
本ページに掲載されてる「カラー化写真」の記載がある写真は、かわさきマイスターの印刷技能士・流石栄基さんにより、カラーで再現されたものです。プロジェクトはガバメントクラウドファンディングによって実現されました。
ぶら川崎区
川崎区はなぜ日本の高度経済成長を支えることができたのか?
京浜工業地帯の中心に位置する川崎区は、日本の高度経済成長を支えた工業の街。工場は川崎以外の地方出身者や外国人たちにも支えられていました。川崎市の多様性の原点を見つけに、ぶら歩きぶら川崎区(1)川崎駅
川崎駅前にひっそりとたたずむ沖縄の魔除けの石碑
2011(平成23)年に再整備が完了したJR川崎駅の東口広場。その一角に、人の背丈くらいの石碑を見つけた。朝のラッシュ時、その前で足を止める人はなく、皆、せわしなく移動しているが、なかなかどうして立派な作りではないか。
表には「石敢當(いしがんとう)」という3文字が刻まれているが、これはなに? 石碑の裏に記されている由来によると、1966(昭和41)年9月、宮古島をはじめとした沖縄諸島が複数回の台風に襲われ大きな被害を受けた際に、川崎市は積極的な救援活動を行った。それに対する礼として、宮古島から贈られたという。川崎区役所の久保寺勝行さんが説明してくれた。
「石敢當は古来から沖縄で魔除けとして置かれる石碑です。古くから川崎と沖縄は結びつきが強く、沖縄出身の移住者が多いのです」 大正時代、現在、川崎競馬場のある場所に富士瓦斯紡績(ふじがすぼうせき)という会社の工場があり、全国各地から女性たちが集まり工員として働いていた。その中で最も数が多かったのが、沖縄出身者だったそうだ。
ぶら川崎区(2)銀柳街
にぎわった駅前の商店街 銀座街には名古屋城があった?
駅の東口から南東に向かうと、銀柳街に出る。全長約250mに約60店舗が並ぶ商店街。多数のステンドグラスや、天窓が設けられた開閉式アーケードが自慢だ。戦後まもない1946(昭和21)年からその翌年にかけて、京急川崎駅からかつての映画街まで300本ほどの柳の木が植えられたところから、銀幕の銀と柳を合わせて銀柳街と名付けたという。 銀柳街から新川通りを越えて南側、ラ チッタデッラが建つあたりには、1937(昭和12)年に6館の映画館が開業。
銀映街(川崎映画街)と呼ばれ親しまれた。戦災で焼失してしまったが、戦後次々開業し1962(昭和37)年には大小16館もの映画館が揃った。市役所通りを越えて北側には、約30店舗を擁する銀座街がある。かつてこの商店街には「城」があった。愛知ふとん店の店舗屋上に初代店主が、故郷の名古屋城天守閣を模した5層の建築物を作ったのだ。
ぶら川崎区(3)桜川公園
かつての市電はひっそりと公園で保存されて
1969(昭和44)年まで、川崎駅と臨海部は市電(路面電車)で結ばれていた。
「市電は、朝晩、通勤の労働者でいっぱいだったね」
とは、タクシーのベテラン運転手さん。彼の運転で、市電が通った跡をたどってみた。駅東口から伸びる市電通りは、産業道路(東京大師横浜線)と交差する。その先に高度経済成長を支えた工業地帯があった。
工場で働いていた人たちは、国内出身者だけではなかった。
「朝鮮半島から移り住んだ方も多く、大島四ツ角から産業道路までの通りを中心とした一帯は、焼肉店や韓国から輸入した食材を販売するお店が営業していて、コリアタウンと呼ばれています」
と、川崎区役所の高橋和仁さん。
産業道路沿いにある桜川公園には、市電の車体が展示されている。毎日働く人たちを運んだ車両が、現役退いて静かに休んでいる。また桜川公園に立ち寄ることがあったら、「おつかれさま」の一言をかけてあげたいと思った。
川崎区トリビア
京急のはじまりは?
京浜急行といえば泉岳寺と浦賀を結ぶ本線のイメージが強いが、最も古い路線は大師線。1899(明治32)年の開通(当時は大師電気鉄道)で、電車としては日本で3番目に古い。
川崎が海苔の産地だった?
工業地帯のイメージが強いが、遠浅で豊穣な海で海苔の養殖が盛んだった時期もあった。1934(昭和9)年頃は、400世帯の漁師のほか、出稼ぎの人も手伝いに来ていた。
川崎市市制100周年PR広報紙(川崎区)
ぶら幸区
縄文時代からこの地に人々が暮らし続けた理由とは?
加瀬山は縄文時代には島でした。貝塚も発見され、太古の昔から住みやすい環境がこの地にはあったと分かります。現在の幸区も工場跡地の再開発などを経て、とても人の住みやすい街になってきました。ぶら幸区(1)新鶴見操車場跡
東京ドーム17個分もある東洋一の操車場跡
JR新川崎駅の改札を出てすぐの鹿島田跨線橋は、多くの貨物列車を見ることができる人気のスポット。
「金網越しに珍しい電気機関車やディーゼル機関車が見えるので、撮影する人が多いんですよ」
と教えてくれたのは、幸区役所の大野裕海子さん。この一帯にはかつて東洋一とうたわれた新鶴見操車場があった。臨海部にある工業地帯と全国各地を行き来する貨物列車操車のため、1929( 昭和4)年に完成し、その面積は約80ヘクタール! なんと東京ドーム17個分もの広さだったのだ。最盛期には1 日5000両もの車両を操車していたが、トラック輸送が主流となるとともにその使命を終えた。1984(昭和59)年に、信号場としての機能を残して貨物区は廃止。長距離貨物列車の発着はあるものの、広大な貨物区は更地となった。
跨線橋を下りて左折し、南に向かって歩いてみた。道路の左側には新しいマンション群が、一方の右側には一戸建てなどが並ぶ。歩くこと数分。左手に「新川崎・創造のもり」が見えてきた。2000(平成12)年に川崎市と慶應義塾大学の連携により開校したK2(ケイスクエア)タウンキャンパスなどがあり、産学官地域連携の研究プロジェクトが進められている。
川崎市は今、緑化と最先端技術研究の拠点として再開発を進めており、将来が楽しみだ。
ぶら幸区(2)加瀬山
築城を考えた太田道灌の悪い夢から夢見ヶ崎動物公園の名前が?
新鶴見操車場跡から西に向かって、ちょっと山登り。階段の段差のところに動物の足跡マークが組み込まれていた。なにが待っているのかワクワクしながら、標高30m余の加瀬山の上、夢見ヶ崎公園に到着。
かつてはここから東京湾を一望できたという。ビルが建ち並ぶ現在はさすがにそれはかなわないまでも、広い範囲を見渡せて気持ちがいい。なるほど絶景スポットゆえに夢見ヶ崎という素敵な名前が付いたのか、と勝手に感心していたら、まったくの勘違いであることが判明。江戸城を築いたことで知られる太田道灌は、この地に築城を計画していた。しかしある晩、自分の兜を鷲に持ち去られるという縁起の良くない夢を見て、断念したという。それにちなんで夢見ヶ崎と命名したという伝説があるのだ。
太田道灌の時代のはるか昔から、加瀬山は人々に愛されたようだ。公園内に「加瀬台古墳群」と題した説明プレートが立っており、古墳発掘調査の様子の写真などが掲載されている。ここには分かっているだけでも11もの古墳が築かれていた。4世紀後半から7世紀後半のものだと考えられている。またそのうちの一つ、白山古墳の周辺から出土した秋草文壷は、川崎市唯一の国宝に指定されている。さらに時をさかのぼって縄文~弥生時代。その頃の貝塚等も発見されている。
この地域で縄文・弥生時代から人々の暮らしが営まれ、近代においては臨海工業地帯を支える物流拠点となった。そして現在は、先端技術の拠点として変わり続けているのである。
ぶら幸区(3)夢見ヶ崎動物公園
レッサーパンダもシマウマも無料で会いに行ける
公園の先を奥に進んでいくと、目の前に現れたのは緑のトンネル。カイズカイブキが数十mに渡って左右2列に植えられ、その枝が上方で重なるように連なってトンネルを形成しているのだった。
童心に返ってトンネルをくぐり先を進むと、なんの前触れもなくレッサーパンダと御対面! 加瀬山には夢見ヶ崎動物公園があるが、入場料無料のため、特に出入り口もない。気が付けば動物たちの園舎の前に、着いていたという次第。1972(昭和47)年に動物コーナーを開設したのが始まりで、入場者の5割を占める乳幼児連れの家族に愛されている。
「昨年クラウドファンディングを行いましたが、目標の約6倍の寄付と応援メッセージをいただきました。とても感謝しています」と大野さん。
こんなところにも、幸区が子育て世代に支持されていることが分かる。
幸区トリビア
幸区がシェア100%?
新幹線の自動改札機は、幸区内で設計されたものが全国シェア100%。幸区役所が開催した「鉄ハグ2022 ~鉄道でハグくむ幸~」での展示も、新幹線の自動改札機が目玉だった。
加瀬山は島だった?
かつて、鶴見川・矢上川あたりまでは海で、加瀬山は小島のようだった。加瀬山南東では貝塚が発見され、人が暮らしていたと考えられる。発掘された貝の9割はハマグリだった。
川崎市市制100周年PR広報紙(幸区)
ぶら中原区
多摩川がもたらした恵みとは何か?
川崎フロンターレの本拠地がある等々力緑地は、かつて多摩川河川敷で砂利採掘のためにできた池がたくさんありました。多摩川沿いに発展してきた中原区の昔を探してぶら歩き。
ぶら中原区(1)武蔵小杉駅
タワマン林立の武蔵小杉駅周辺はいつから憧れの街になった?
JRと東急の2社5路線が乗り入れる武蔵小杉駅。その開業の経緯は複雑で、まず1927(昭和2)年に南武鉄道のグラウンド前停留場、武蔵小杉停留場が作られた。1939(昭和
14)年、南武鉄道沿いに進出してきた近代工場のため、東急が東横線と府中街道が交差する所に工業都市駅を開業。それら駅の統廃合や移転といった紆余曲折を経て、現在の形となった。
駅周辺は、1940年代後半から発展が始まったという。1947(昭和22)年に保健所、公民館などの公共施設ができて、中原区の行政の中心地になった。1965(昭和40)年頃からは宅地化が進んで、大企業の社宅群が林立し始めたのである。
工場跡地など敷地面積の大きな土地を利用してタワーマンションが続々建ち出したのは2000年代以降で、景観が一変した。
一方で駅南口には、昭和の香りのする居酒屋などが軒を連ねるセンターロード小杉が健在である。
ぶら中原区(2)等々力緑地
等々力緑地には砂利採掘で大きな池が7つもあった
等々力の地名は、東京都世田谷区の等々力渓谷内にある滝の轟音が「とどろく」ことに由来するといわれる。等々力緑地は36.6ヘクタールもの広さを誇る公園で、豊かな緑に覆われている。敷地内には川崎フロンターレの本拠地の等々力陸上競技場、総合体育館のとどろきアリーナ、等々力球場などを擁するほか、釣池もあってのんびりと釣りを楽しむ人の姿も見られる。まさに市民の憩いの場だ。中原区役所の多田暁弘さんが説明する。
「このあたりは昔の多摩川旧河川敷で、昭和初期の砂利採掘によりたくさんの水が溜まり、大きな池が7つもできました。そこで1949(昭和24)年、池に魚を放流して釣り堀が開業しました」
当初は「東横池」と呼ばれていた釣り堀だが、その巨大さゆえ後に「東横水郷」と改称された。
今後、緑地内の施設の再編整備が行われる。
ぶら中原区(3)丸子の渡し
中原街道は江戸に行くための主要な街道だった
多摩川をはさんで東京と川崎を結ぶ丸子橋のたもとに向かう。現在架かっている橋は、2000(平成12)年に架け替えられた2代目である。1935(昭和10)年に初代の丸子橋が開通するまでは、中原街道を利用する人々は、舟で川を渡った。そんな「丸子の渡し」の歴史は古い。
「中原街道は東海道が整備されるまでは、江戸に行くための主要な街道でした。この周辺は舟を利用する人で大変な賑わいだったそうです」。中原区役所の池田賢一さんはそう話し、さらに続けた。
「今は住宅街になっている小杉十字路付近には、明治・大正時代、料理屋や劇場が数多くありました。地元の人は『パリかロンドンか小杉十字路か』と誇らしげに語っていたらしいです」
一大繁華街が生まれたのも、多摩川のおかげ。中原区と多摩川は、昔も今も、そして未来も切っても切れない仲だろう。
中原区トリビア
徳川家康が鷹狩りに往来?
平塚の中原で東海道と結ばれる中原街道。徳川家康は平塚に中原御殿(別荘)を持ち、鷹狩りに出かける際にこの街道を通った。また小杉にも御殿を持ち、道中の休息に利用した。
世田谷区と中原区に「玉川小学校」?
川崎市立玉川小・中学校の読み方は「ぎょくせん」。創立に際して校名を決める時に、対岸の世田谷区には「玉川小学校」が。だが玉川の文字を用いたく、読みを変えて命名。
川崎市市制100周年PR広報紙(中原区)
ぶら高津区
人の道と水の道でどう栄えたのか?
高津区には人の道と水の道があります。江戸と大山阿夫利神社を結ぶ大山街道と、水を下流の4つの堀に分ける久地円筒分水のある二ヶ領用水です。その発展の記憶を探しに、ぶら歩きしました。
ぶら高津区(1)溝口駅周辺
高津区最大の溝口駅前には昭和の匂いが色濃く残っていた
JR南武線武蔵溝ノ口駅からキラリデッキという名の高架式の駅前広場を歩いて、東急田園都市線溝の口駅へ向かう。ふと後ろを振り返ると、ノクティプラザが見える。みぞのくちの「のくち」と「シティ」とを合わせて命名された大型商業施設だ。高津区役所の今井映子さんが教えてくれた。
「1993(平成5)年に着工され、1997(平成9)年にノクティプラザが開業。翌年の南北自由通路完成を経て、2年後に事業は完
了しました」
という説明を聞きつつ、訪れてみたのは南武線沿いに伸びる溝の口駅西口商店街。青果店や飲食店が多く軒を接する。昭和の匂いが色濃く残り、人々の息遣いが感じられる。駅界隈はまるで異なる新旧ふたつの貌(かお)を持つ。昔も今も、この駅周辺には人々を惹きつけてやまない魅力があることを実感した。
ぶら高津区(2)大山街道
江戸への物流の大動脈だった頃の面影を探して旧街道を散策
さて大山街道へ。江戸・赤坂御門を基点に、大山阿夫利(おおやまあふり)神社(神奈川県伊勢原市)まで続く街道のことだ。かつて大山は雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、多くの人々が雨乞いのために訪れた。また駿河の茶や真綿、伊豆の椎茸や乾魚、秦野のたばこなどを江戸に運ぶ大切な輸送路としても利用された。二子と溝口には宿駅が置かれ、たいそうにぎわったという。
「沿道の商店は建て替えが進みましたが、古い蔵造りの建物は現在も数軒残っています」(今井さん)
そのひとつが、1765(明和2)年創業の灰吹屋薬局。店舗としてこそ使っていないが、蔵は現存し、大山街道のランドマークになっている。また大山街道ふるさと館には、歴史的資料が展示されている。
ぶら高津区(3)久地円筒分水 (4)橘樹官衙遺跡群
今も水を4分割し続けている久地円筒分水から二ヶ領用水の遊歩道へ
高津区トリビア
ヤクルトファンがお詣りするお寺が?
大山街道沿いにある宗隆寺(そうりゅうじ)は、ヤクルトスワローズの村上宗隆選手と同じ名であり、監督と同名の「高津」区にあることが縁で、ファンによる参拝が増えた。
超ぜいたくな文化人のコラボ!
二子神社にある歌人の岡本かの子氏を顕彰する文学碑「誇り」は、息子の岡本太郎氏が制作。築山と台座は建築家・丹下健三氏。碑文は文芸評論家・亀井勝一郎氏の文を、川端康成氏が筆を取った。
川崎市市制100周年PR広報紙(高津区)
ぶら宮前区
起伏に富んだ地形がもたらしたものは何か?
宮前区は坂の多い街。台地と谷戸の多彩な地形が恵みをもたらしてくれた。都市農業でメロンや花桃など高品質な作物で有名なのはもちろん、最近はサッカーでも“ 鷺沼兄弟” が話題になっている?
ぶら宮前区(1)鷺沼小学校
W 杯で世界を驚かせた“鷺沼兄弟” 坂の多い街が体力を養った?
東急田園都市線鷺沼駅で下車し、鷺沼駅前交差点を右折すると、春待坂と呼ばれる長い坂が現れた。 宮前区には坂道が多く、そのうち18か所には区民からの公募で愛称が付けられたという。西向きの斜面なので桜の開花が他所よりちょっと遅い。春を待つというイメージで名付けられた坂を下っていく。
道路の両側に200mにもわたって桜並木が続く。開花は少々遅くても、いざ咲いたらそれはそれは見事な光景だろう。
坂を下りきると、『鷺沼から世界へ』の横断幕が目に入ってくる。なんとここは2022FIFAワールドカップで大活躍をした三笘薫、田中碧選手が卒業した鷺沼小学校なのだ。2人の体力は、坂の多い地域で育ったから養われたと言ったら、ちょっと言い過ぎ?
ぶら宮前区(2)カッパーク鷺沼
思い出の鷺沼プールの跡地では、フットサルの若者たちが
続いてカッパーク鷺沼を訪ねた。かつて鷺沼プールがあった場所だ。東急田園都市線の開通による住宅開発に伴い、1967(昭和42)年に、川崎市水道局鷺沼配水池が設置された。その屋上部を有効活用するために、翌年、プールがオープン。子ども向けプールの他に、水深180cmもある六角プールがあった。「身長よりも深い六角プールに入った子どもは、威張っていたなんて話もよく聞きます」 とは、宮前区役所のふたり。
しかし利用者の減少を受けて2002(平成14)年に廃止。今では教育、広場・公園、運動施設、福祉の4つのゾーンに分けられて活用されている。
フットサルコートを6面持つ「フロンタウンさぎぬま」もある。この日は地元の高校生が練習をしていたのだが、とにかくうまい。感心して声をかけたら、「自分たちなんて全然です」との答えが返ってきた。この地区のサッカーレベルの高さを実感したのである。
ぶら宮前区(3)尻手黒川道路
肥沃な土壌により宮前区は今も都市農業が盛ん
次に向かったのは、尻手黒川道路の金山交差点。 沿道周辺に宅地もない時代があった。1947(昭和22)年に右下の写真を撮影した田村隆司さんは、「当時は田んぼや畑が広がっていたんですよ。これは農地改革に伴って測量したときのものです」と語る。
「川崎歴史ガイド」によると、宮前区南半部は台地に小さな谷が入り込んでおり起伏に富んでいた。土壌は、厚く堆積する富士山の火山灰(関東ローム層)に腐食した枯れ草などが混ざっており、肥沃で水はけが良かった。そのため古くから麦などの畑作農業が盛んに行われたそうだ。明治時代以降は東京から近い利便性を生かし、花や野菜など新しい農作物が導入されるようになった。宮前メロンや江戸時代から生産された馬絹の花桃など、ブランド化した作物もある。
一方、1966(昭和41)年の東急田園都市線溝の口~長津田(横浜市)開通、1968(昭和43)年の東名高速道路開通後は、宅地開発が急速に進んでいった。
今、金山交差点付近には、JR貨物の梶ヶ谷貨物ターミナル駅がある。家庭ごみをごみ処理場に輸送する列車「クリーンかわさき号」の始発駅にもなっている。高度経済成長期の発展を経て、今は地球環境への優しさを示す場所ともいえるのだ。
宮前区トリビア
脚のないお化け灯籠
東京・赤坂の旧陸軍東部62 部隊の兵舎に置かれていた灯籠は、夜に化けて徘徊したということで、動かないように足を切られたという。部隊が川崎に移転する際、灯籠も移動して来た。脚のないまま、現在は川崎市青少年の家に置かれている。
“ 宮前兄妹” の名前の由来は?
川崎市市制100周年PR広報紙(宮前区)
ぶら多摩区
豊かな自然は時代の変化をどう見てきたのか?
多摩区には生田緑地などの広大な丘陵地が広がっていて、今も市民の憩いの場として知られています。ここに遊園地があったのはもう20 年も前のこと。まちの移り変わりの記憶をたどってぶら歩き。
ぶら多摩区(1)向ヶ丘遊園
小田急線に乗って遊園地に行き帰りは梨を買って帰る
1927(昭和2)年の開業当初は、向ヶ丘遊園という駅名ではなかったことを知っている人は、ごく少数なのではないか。稲田登戸駅という名前だったのだ。駅名が改称されたのは、1955(昭和30)年のこと。もちろん向ヶ丘遊園の名称に合わせたものだ。
「向ヶ丘遊園は小田急線開通(稲田登戸駅開業)と同時に、無料の遊園地としてオープンしました」
と歴史を説明するのは、多摩区役所の那須大輔さん。さらに続けて、「多摩区では梨の栽培が盛んに行われていたこともあって、小田急電鉄は向ヶ丘遊園の宣伝と共に、新宿駅で梨狩りの案内を積極的に展開したそうです。
高度経済成長期には、「向ヶ丘遊園で遊んで梨を土産に帰る」郊外型のレジャーが定着。1970年代以降は、遊園にアトラクションが続々登場した。
ぶら多摩区(2)生田緑地
生田緑地の裾野に建てられた川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム
向ヶ丘遊園駅と向ヶ丘遊園正門まではモノレールも走り、大いににぎわっていたが、遊園は2002( 平成14)年に閉園。モノレー
ルも撤去開始された。
駅からモノレール跡沿いに歩くこと、十数分。かつての正門があった場所に着くと今も、「花の大階段」の跡が見える。
そこから北西数百m先には生田緑地が広がり、緑地内には鎌倉幕府の御家人・稲毛三郎重成が城を構えた枡形山(標高84m)がある。重成は、現在の川崎市中原区から南多摩の一部までを統治していたとされる。ちなみに重成は、源頼朝の妻・北条政子の妹を妻に迎えており、一説ではその妻が嫁入り道具の一つとして鎌倉から「のらぼう菜」の種を持ってきたと伝えられている。その結果、多摩区菅地区にのらぼう菜が伝わったといわれている。また向ヶ丘遊園も、当初は枡形山に「枡形山遊園地」として建設される予定だったという。
向ヶ丘遊園の閉園後、生田緑地ばら苑は市が受け継ぎ、ばらの開花時期に合わせて年2回開苑している。さらに、正門付近の跡地を利用して2011(平成23)年に完成したのが、「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」。藤子・F・不二雄氏が長く多摩区に住んでいたことから建てられた。その縁のおかげで、多摩区にはドラえもんやパーマンなど数多くのモニュメントが立っている。小田急線の登戸駅と向ヶ丘遊園駅、JRの宿河原駅の前、ばら苑アクセスロードなどで、お馴染みのキャラクターを見つけてほしい。
ぶら多摩区(3)登戸の渡し
登戸を通る津久井道は、江戸のシルクロードだった
続いて向かったのは、登戸の渡しの跡地。登戸駅至近の多摩川沿いにある。まだ多摩川に橋のない時代、人々は川を舟で渡った。川崎市内では、確認されたものだけで20か所の渡し場跡がある。東京・三軒茶屋から登戸を通って相模原市津久井に至る津久井道は、津久井で生産される絹を江戸に運んだシルク・ロード。登戸の渡しは、人々と美しい絹を積んでいた。
「今ではラフティングボートなどの体験会やいかだレースのイベントなども開かれています」
多摩区役所の田邊光介さんが語る。渡し船こそないが、釣りや野鳥観察、ジョギングなど、自然の恵みを堪能する人を多く見かけた。
多摩区の歴史と自然を満喫した1日だった。
多摩区トリビア
いなげやの名前は豪族から?
全国に132 店舗を構えるスーパーいなげや。1900(明治33)年に開店する際、創業者の猿渡波蔵氏が、出生地一帯を統治していた豪族・稲毛三郎重成にあやかって命名した。
東映生田スタジオや円谷プロが近くにあったため、向ヶ丘遊園は特撮番組のロケ地としてよく使われた。「仮面ライダー」シリーズや「ウルトラセブン」などに登場する。
川崎市市制100周年PR広報紙(多摩区)
ぶら麻生区
豊かな里山とベッドタウンの共存が憧れの街を生んだ?
麻生区といえば憧れの新百合ヶ丘が思い出されますが、百合ヶ丘駅周辺に開発された百合ヶ丘団地の方が、憧れの街の先輩。豊かな里山を残しながら、ベッドタウンとして成長してきたこの街をぶら歩き。
ぶら麻生区(1)百合ヶ丘駅
麻生区のベッドタウン化は百合ヶ丘団地から始まった
小田急線百合ヶ丘駅で下車し、南口から柳通りに出ると、川崎市内にだけ4店舗を構えるスーパーマーケット・ゆりストアの本店があった。
よく見ると、店舗建て替えのために2023(令和5)年1月15日から一時閉店という張り紙が(訪問したのは前年12月)。同店は百合ヶ丘駅が開業した1960(昭和35)年に創業。高度経済成長期からずっと、この街の人々の生活を支えてきたわけだ。
百合ヶ丘駅周辺の里山を切り開いて住宅地として開発されたのは、1960(昭和35)年前後。発展の中心を担ったのが百合ヶ丘団地だった。地主らが日本住宅公団(現・UR都市機構)に約14万坪もの土地を譲渡し、近代的な団地が建設された。柳通りの弘法の松
交差点までの間に第1団地、交差点の先に第2団地が造られ、駅やゆりストアと同じく1960(昭和35)年から入居が始まり、ニュータウンが生まれた。
百合ヶ丘駅の隣り(小田原側)の新百合ヶ丘駅は、1974(昭和49)年の開業。百合ヶ丘駅には停まらない急行、快速急行、さらにロマンスカーの一部も停まる。駅周辺は2000年代に入って開発が進み、大型商業施設も次々とオープンしている。
ぶら麻生区(2)百合ヶ丘団地
喜劇駅前シリーズの舞台にもなった憧れの団地生活
「百合ヶ丘団地は近代的な造りで、トイレは洋式。キッチンはステンレスで、人々が住みたいと憧れる場所だったそうです。そこを舞台にした映画『喜劇駅前団地』(森繁久彌主演)も作られました。映画を観るとその頃の生活ぶりがかいまられます」
当時の団地の説明をしてくれたのは、麻生区役所の市川恵理さん。では現在の団地はどうなっているのか。まずは弘法の松交差点を目指し、緩やかな坂を登っていく。交差点に至る前に、左側にサンラフレ百合ヶ丘という団地が見えてきた。老朽化した第1団地を建て替えたものだ。高台にあるため、団地の敷地内から富士山を見ることもできる。
かつての団地には若い夫婦が多く住み、公園で遊ぶ子どもたちの声が聞こえていたことだろう。現在はテニスコートが充実しており、年輩者が楽しげにプレーをしていた。その1人にブランコのある公園はないかと尋ねて、教えてもらった。そこは、半世紀以上前に撮影された写真と同じ場所のようだ。平日の昼ということもあるのだろうが、ブランコは無人。歓声を上げている子どもたちを想像してみるのだった。
ぶら麻生区(3)
樹齢数百年の松は焼けてしまい植え替えられた松が育っていた
麻生区トリビア
弘法の松で仮面ライダーが?
東映生田撮影所が近いこともあり、特撮愛好家の間では仮面ライダーがショッカーの怪人と戦うシーンの撮影は弘法の松公園でも行われていたのでは?と言われている。
なぜ弘法の松と呼ばれる?
この地を気に入った弘法大師は「谷が100 あれば寺を作ろう」と考えたが、99谷しかなく断念。帰るにあたって松の枝を差したところ、根が生え繁茂したなどの言い伝えがある。
川崎市市制100周年PR広報紙(麻生区)
お問い合わせ先
川崎市総務企画局シティプロモーション推進室ブランド戦略担当
電話: 044-200-3717
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