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川崎市市制100周年PR広報紙~7区の歴史を振り返る~

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 2024年、川崎市は市制100周年をむかえます。
 その歴史を知るため、川崎市7区をぶらりと歩いてみました。
 それぞれの区の昔の写真を手に、歩いて、見て、聞いて、感じて、発見したこと。
 それは今に至る100年の発展の理由でした。
 あなたの住んでいるまちの昔を知っていますか?
 過去にはこれからの100年先の未来を考えるヒントが、きっとあるはずです。

 広報紙は区役所等の市内公共施設等で配布しています。

目次

白黒写真カラー化プロジェクト

本ページに掲載されてる「カラー化写真」の記載がある写真は、かわさきマイスターの印刷技能士・流石栄基さんにより、カラーで再現されたものです。プロジェクトはガバメントクラウドファンディングによって実現されました。

白黒写真カラー化プロジェクトサイト

 

ぶら川崎区

川崎区はなぜ日本の高度経済成長を支えることができたのか?

京浜工業地帯の中心に位置する川崎区は、日本の高度経済成長を支えた工業の街。工場は川崎以外の地方出身者や外国人たちにも支えられていました。川崎市の多様性の原点を見つけに、ぶら歩き

ぶら川崎区(1)川崎駅

川崎駅が開業したのは1872(明治5)年。写真のように、高度経済成長期には多くの人が市電やバスで臨海部に向かって行った。現在の利用客数は1日平均約16 万人。東口は京急川崎駅もあり、ラッシュ時にはごったがえす。

 

川崎駅前にひっそりとたたずむ沖縄の魔除けの石碑

石敢當は、宮古島特産のトラバーチンという石が使われている。戦前から沖縄と関係が深い川崎市は、1996(平成8)年に那覇市と友好都市となり、交流を深めている。

2011(平成23)年に再整備が完了したJR川崎駅の東口広場。その一角に、人の背丈くらいの石碑を見つけた。朝のラッシュ時、その前で足を止める人はなく、皆、せわしなく移動しているが、なかなかどうして立派な作りではないか。
表には「石敢當(いしがんとう)」という3文字が刻まれているが、これはなに? 石碑の裏に記されている由来によると、1966(昭和41)年9月、宮古島をはじめとした沖縄諸島が複数回の台風に襲われ大きな被害を受けた際に、川崎市は積極的な救援活動を行った。それに対する礼として、宮古島から贈られたという。川崎区役所の久保寺勝行さんが説明してくれた。
「石敢當は古来から沖縄で魔除けとして置かれる石碑です。古くから川崎と沖縄は結びつきが強く、沖縄出身の移住者が多いのです」 大正時代、現在、川崎競馬場のある場所に富士瓦斯紡績(ふじがすぼうせき)という会社の工場があり、全国各地から女性たちが集まり工員として働いていた。その中で最も数が多かったのが、沖縄出身者だったそうだ。

ぶら川崎区(2)銀柳街

銀柳街は1949(昭和24)年に、小売店など10店が集まって興した商店街。1994(平成6)年アーケードの入口に、国内最大級の全長15mものステンドグラスアーチが設置された。

 

にぎわった駅前の商店街 銀座街には名古屋城があった?

愛知ふとん店の初代・小林明氏は、愛知県の豊橋出身で宮大工だった。同郷の人々に買いに来て欲しいと願い、自らの手で立派な「名古屋城」を造った。

 駅の東口から南東に向かうと、銀柳街に出る。全長約250mに約60店舗が並ぶ商店街。多数のステンドグラスや、天窓が設けられた開閉式アーケードが自慢だ。戦後まもない1946(昭和21)年からその翌年にかけて、京急川崎駅からかつての映画街まで300本ほどの柳の木が植えられたところから、銀幕の銀と柳を合わせて銀柳街と名付けたという。 銀柳街から新川通りを越えて南側、ラ チッタデッラが建つあたりには、1937(昭和12)年に6館の映画館が開業。
 銀映街(川崎映画街)と呼ばれ親しまれた。戦災で焼失してしまったが、戦後次々開業し1962(昭和37)年には大小16館もの映画館が揃った。市役所通りを越えて北側には、約30店舗を擁する銀座街がある。かつてこの商店街には「城」があった。愛知ふとん店の店舗屋上に初代店主が、故郷の名古屋城天守閣を模した5層の建築物を作ったのだ。

ぶら川崎区(3)桜川公園

市電は1944(昭和19)年に、小川町から渡田3丁目までの2.76km が開通。1952(昭和27)年には京浜急行塩浜駅まで延伸。公園内の展示車両は東京を走っていたものを1947(昭和22)年に川崎市が買い取った。

 

かつての市電はひっそりと公園で保存されて

市電は川崎駅東口の小川町から走り出した。産業道路までは今も市電通りと呼ばれており、標識が立っている。電車は道路の中央を走行した。

 1969(昭和44)年まで、川崎駅と臨海部は市電(路面電車)で結ばれていた。
「市電は、朝晩、通勤の労働者でいっぱいだったね」
 とは、タクシーのベテラン運転手さん。彼の運転で、市電が通った跡をたどってみた。駅東口から伸びる市電通りは、産業道路(東京大師横浜線)と交差する。その先に高度経済成長を支えた工業地帯があった。
 工場で働いていた人たちは、国内出身者だけではなかった。
「朝鮮半島から移り住んだ方も多く、大島四ツ角から産業道路までの通りを中心とした一帯は、焼肉店や韓国から輸入した食材を販売するお店が営業していて、コリアタウンと呼ばれています」
 と、川崎区役所の高橋和仁さん。
 産業道路沿いにある桜川公園には、市電の車体が展示されている。毎日働く人たちを運んだ車両が、現役退いて静かに休んでいる。また桜川公園に立ち寄ることがあったら、「おつかれさま」の一言をかけてあげたいと思った。

川崎区トリビア

京急のはじまりは?
 
京浜急行といえば泉岳寺と浦賀を結ぶ本線のイメージが強いが、最も古い路線は大師線。1899(明治32)年の開通(当時は大師電気鉄道)で、電車としては日本で3番目に古い。

川崎が海苔の産地だった?
 
工業地帯のイメージが強いが、遠浅で豊穣な海で海苔の養殖が盛んだった時期もあった。1934(昭和9)年頃は、400世帯の漁師のほか、出稼ぎの人も手伝いに来ていた。

ぶら幸区

縄文時代からこの地に人々が暮らし続けた理由とは?

加瀬山は縄文時代には島でした。貝塚も発見され、太古の昔から住みやすい環境がこの地にはあったと分かります。現在の幸区も工場跡地の再開発などを経て、とても人の住みやすい街になってきました。

ぶら幸区(1)新鶴見操車場跡

操車場はあまりにも広大だったために、完成後は地元住民たちの生活に多大な影響を与えた。たとえば当時の小倉村は地域が2分割され、東小倉と西小倉に分かれた。両者を行き来するには、江ヶ崎・小倉・鹿島田という3つの跨線橋を渡るしかなく、村民は大変不便だった。

 

東京ドーム17個分もある東洋一の操車場跡

創造のもりでは、K2タウンキャンパスの他、かわさき新産業創造センター(KBIC) があり、同本館、ナノ・マイクロ産学官共同研究施設(NANOBIC)、産学交流・研究開発施設(AIRBIC)といった施設で研究が進められている。

 JR新川崎駅の改札を出てすぐの鹿島田跨線橋は、多くの貨物列車を見ることができる人気のスポット。
「金網越しに珍しい電気機関車やディーゼル機関車が見えるので、撮影する人が多いんですよ」
 と教えてくれたのは、幸区役所の大野裕海子さん。この一帯にはかつて東洋一とうたわれた新鶴見操車場があった。臨海部にある工業地帯と全国各地を行き来する貨物列車操車のため、1929( 昭和4)年に完成し、その面積は約80ヘクタール! なんと東京ドーム17個分もの広さだったのだ。最盛期には1 日5000両もの車両を操車していたが、トラック輸送が主流となるとともにその使命を終えた。1984(昭和59)年に、信号場としての機能を残して貨物区は廃止。長距離貨物列車の発着はあるものの、広大な貨物区は更地となった。
 跨線橋を下りて左折し、南に向かって歩いてみた。道路の左側には新しいマンション群が、一方の右側には一戸建てなどが並ぶ。歩くこと数分。左手に「新川崎・創造のもり」が見えてきた。2000(平成12)年に川崎市と慶應義塾大学の連携により開校したK2(ケイスクエア)タウンキャンパスなどがあり、産学官地域連携の研究プロジェクトが進められている。
 川崎市は今、緑化と最先端技術研究の拠点として再開発を進めており、将来が楽しみだ。

ぶら幸区(2)加瀬山

 

築城を考えた太田道灌の悪い夢から夢見ヶ崎動物公園の名前が?

白山古墳周辺から発掘された秋草文壺は、平安時代に作られた壷。高さ42cmほどで、ススキ、ウリ、ヤナギといった秋草やトンボの文様が描かれている。慶応義塾が所有し、東京国立博物館に寄託されている。

 新鶴見操車場跡から西に向かって、ちょっと山登り。階段の段差のところに動物の足跡マークが組み込まれていた。なにが待っているのかワクワクしながら、標高30m余の加瀬山の上、夢見ヶ崎公園に到着。
 かつてはここから東京湾を一望できたという。ビルが建ち並ぶ現在はさすがにそれはかなわないまでも、広い範囲を見渡せて気持ちがいい。なるほど絶景スポットゆえに夢見ヶ崎という素敵な名前が付いたのか、と勝手に感心していたら、まったくの勘違いであることが判明。江戸城を築いたことで知られる太田道灌は、この地に築城を計画していた。しかしある晩、自分の兜を鷲に持ち去られるという縁起の良くない夢を見て、断念したという。それにちなんで夢見ヶ崎と命名したという伝説があるのだ。
 太田道灌の時代のはるか昔から、加瀬山は人々に愛されたようだ。公園内に「加瀬台古墳群」と題した説明プレートが立っており、古墳発掘調査の様子の写真などが掲載されている。ここには分かっているだけでも11もの古墳が築かれていた。4世紀後半から7世紀後半のものだと考えられている。またそのうちの一つ、白山古墳の周辺から出土した秋草文壷は、川崎市唯一の国宝に指定されている。さらに時をさかのぼって縄文~弥生時代。その頃の貝塚等も発見されている。
 この地域で縄文・弥生時代から人々の暮らしが営まれ、近代においては臨海工業地帯を支える物流拠点となった。そして現在は、先端技術の拠点として変わり続けているのである。

ぶら幸区(3)夢見ヶ崎動物公園

加瀬山を登りきると、長さ約750m、幅約150mの平坦な土地が広がる。明治時代から第二次大戦までの戦没・戦災死者を祀った慰霊塔が建っている。動物園を越えて奥まで進むと、富士見デッキという展望台、遊具が設置された広場もあり、親子連れが遊んでいた。

 

レッサーパンダもシマウマも無料で会いに行ける

夢見ヶ崎動物公園は、川崎市内唯一の動物園。比較的小型の動物が多く、子どもたちから人気のシマウマやフンボルトペンギン、ピンクフラミンゴなど約60 種類、約400 点の動物を見学できる。入園料無料で年中無休。

 公園の先を奥に進んでいくと、目の前に現れたのは緑のトンネル。カイズカイブキが数十mに渡って左右2列に植えられ、その枝が上方で重なるように連なってトンネルを形成しているのだった。
 童心に返ってトンネルをくぐり先を進むと、なんの前触れもなくレッサーパンダと御対面! 加瀬山には夢見ヶ崎動物公園があるが、入場料無料のため、特に出入り口もない。気が付けば動物たちの園舎の前に、着いていたという次第。1972(昭和47)年に動物コーナーを開設したのが始まりで、入場者の5割を占める乳幼児連れの家族に愛されている。
「昨年クラウドファンディングを行いましたが、目標の約6倍の寄付と応援メッセージをいただきました。とても感謝しています」と大野さん。
 こんなところにも、幸区が子育て世代に支持されていることが分かる。

幸区トリビア

幸区がシェア100%?
 新幹線の自動改札機は、幸区内で設計されたものが全国シェア100%。幸区役所が開催した「鉄ハグ2022 ~鉄道でハグくむ幸~」での展示も、新幹線の自動改札機が目玉だった。

加瀬山は島だった?
 かつて、鶴見川・矢上川あたりまでは海で、加瀬山は小島のようだった。加瀬山南東では貝塚が発見され、人が暮らしていたと考えられる。発掘された貝の9割はハマグリだった。

ぶら中原区

多摩川がもたらした恵みとは何か?

 川崎フロンターレの本拠地がある等々力緑地は、かつて多摩川河川敷で砂利採掘のためにできた池がたくさんありました。多摩川沿いに発展してきた中原区の昔を探してぶら歩き。

ぶら中原区(1)武蔵小杉駅

左の写真が撮影された1950年代に、東急の武蔵小杉駅は移転して現在の位置に。写真は国鉄(当時)の駅ホームで。2000年代になって広大な土地の再開発に際して、タワーマンションが建設されるように。

 

タワマン林立の武蔵小杉駅周辺はいつから憧れの街になった?

高度経済成長期に、多くの労働者を癒してくれたセンターロード小杉も健在。最先端の高層建築を背景に庶民的な飲食店がある様子は、まるで映画『ブレードランナー』ではないか。ハリソン・フォードを気取って1杯やるのもオツかもしれない。

 JRと東急の2社5路線が乗り入れる武蔵小杉駅。その開業の経緯は複雑で、まず1927(昭和2)年に南武鉄道のグラウンド前停留場、武蔵小杉停留場が作られた。1939(昭和
14)年、南武鉄道沿いに進出してきた近代工場のため、東急が東横線と府中街道が交差する所に工業都市駅を開業。それら駅の統廃合や移転といった紆余曲折を経て、現在の形となった。
 駅周辺は、1940年代後半から発展が始まったという。1947(昭和22)年に保健所、公民館などの公共施設ができて、中原区の行政の中心地になった。1965(昭和40)年頃からは宅地化が進んで、大企業の社宅群が林立し始めたのである。
 工場跡地など敷地面積の大きな土地を利用してタワーマンションが続々建ち出したのは2000年代以降で、景観が一変した。
 一方で駅南口には、昭和の香りのする居酒屋などが軒を連ねるセンターロード小杉が健在である。

ぶら中原区(2)等々力緑地

多摩川は氾濫を繰り返し、川筋は蛇行し、流路の変更を重ねてきた。等々力、宇奈根、野毛、丸子のように東京都側と神奈川県側とで同じ地名があるのは、流路変更の影響で村が分断されたから。写真は丸子橋付近だが、等々力緑地の一部も多摩川の河川敷だった。

 

等々力緑地には砂利採掘で大きな池が7つもあった

特別な許可を取って等々力陸上競技場のメインスタジアムの屋根に上らせてもらった。かなりの高さである。障害物もほとんどなく1.5kmほど先に建つ武蔵小杉のタワーマンション群をくっきり撮影できた。

 等々力の地名は、東京都世田谷区の等々力渓谷内にある滝の轟音が「とどろく」ことに由来するといわれる。等々力緑地は36.6ヘクタールもの広さを誇る公園で、豊かな緑に覆われている。敷地内には川崎フロンターレの本拠地の等々力陸上競技場、総合体育館のとどろきアリーナ、等々力球場などを擁するほか、釣池もあってのんびりと釣りを楽しむ人の姿も見られる。まさに市民の憩いの場だ。中原区役所の多田暁弘さんが説明する。
「このあたりは昔の多摩川旧河川敷で、昭和初期の砂利採掘によりたくさんの水が溜まり、大きな池が7つもできました。そこで1949(昭和24)年、池に魚を放流して釣り堀が開業しました」
 当初は「東横池」と呼ばれていた釣り堀だが、その巨大さゆえ後に「東横水郷」と改称された。
 今後、緑地内の施設の再編整備が行われる。

ぶら中原区(3)丸子の渡し

多摩川の河川敷で楽しむのは、昔も今も変わらない。橋の完成に伴い丸子の渡しは廃止されたが、地元の人たちの手により「丸子の渡し祭り」が催され、渡し舟の乗船体験ができる。

 

中原街道は江戸に行くための主要な街道だった

丸子橋を渡ると東京都大田区。夕暮れ時に、東京側から中原区を見てみる。太陽は多摩川の水面に美しく反射しつつ、そびえ立つ武蔵小杉のタワーマンション群に沈んでいく。

 多摩川をはさんで東京と川崎を結ぶ丸子橋のたもとに向かう。現在架かっている橋は、2000(平成12)年に架け替えられた2代目である。1935(昭和10)年に初代の丸子橋が開通するまでは、中原街道を利用する人々は、舟で川を渡った。そんな「丸子の渡し」の歴史は古い。
「中原街道は東海道が整備されるまでは、江戸に行くための主要な街道でした。この周辺は舟を利用する人で大変な賑わいだったそうです」。中原区役所の池田賢一さんはそう話し、さらに続けた。
「今は住宅街になっている小杉十字路付近には、明治・大正時代、料理屋や劇場が数多くありました。地元の人は『パリかロンドンか小杉十字路か』と誇らしげに語っていたらしいです」
 一大繁華街が生まれたのも、多摩川のおかげ。中原区と多摩川は、昔も今も、そして未来も切っても切れない仲だろう。

中原区トリビア

徳川家康が鷹狩りに往来?
 平塚の中原で東海道と結ばれる中原街道。徳川家康は平塚に中原御殿(別荘)を持ち、鷹狩りに出かける際にこの街道を通った。また小杉にも御殿を持ち、道中の休息に利用した。

世田谷区と中原区に「玉川小学校」?
 川崎市立玉川小・中学校の読み方は「ぎょくせん」。創立に際して校名を決める時に、対岸の世田谷区には「玉川小学校」が。だが玉川の文字を用いたく、読みを変えて命名。

ぶら高津区

人の道と水の道でどう栄えたのか?

 高津区には人の道と水の道があります。江戸と大山阿夫利神社を結ぶ大山街道と、水を下流の4つの堀に分ける久地円筒分水のある二ヶ領用水です。その発展の記憶を探しに、ぶら歩きしました。

ぶら高津区(1)溝口駅周辺

まだ戦後の佇まいが感じられる1952(昭和27)年頃の駅前。この2年後に神武景気が始まり、高度経済成長期に入っていく。再開発後の駅前は、クリスマス時期のイルミネーションなどで人々を楽しませる。

 

高津区最大の溝口駅前には昭和の匂いが色濃く残っていた

キラリデッキとは対照的に、昔ながらの人間臭さが魅力的な溝の口駅西口商店街。レトロなアーケードが架けられて、中にはY字型の三叉路もある。和菓子屋や八百屋などがあるが、その“本領”が発揮されるのは夜だろう。大衆酒場が人々を癒してくれる。

 JR南武線武蔵溝ノ口駅からキラリデッキという名の高架式の駅前広場を歩いて、東急田園都市線溝の口駅へ向かう。ふと後ろを振り返ると、ノクティプラザが見える。みぞのくちの「のくち」と「シティ」とを合わせて命名された大型商業施設だ。高津区役所の今井映子さんが教えてくれた。
「1993(平成5)年に着工され、1997(平成9)年にノクティプラザが開業。翌年の南北自由通路完成を経て、2年後に事業は完
了しました」
 という説明を聞きつつ、訪れてみたのは南武線沿いに伸びる溝の口駅西口商店街。青果店や飲食店が多く軒を接する。昭和の匂いが色濃く残り、人々の息遣いが感じられる。駅界隈はまるで異なる新旧ふたつの貌(かお)を持つ。昔も今も、この駅周辺には人々を惹きつけてやまない魅力があることを実感した。

ぶら高津区(2)大山街道

第1回人間国宝・陶芸家の濱田庄司氏は、1894(明治27)年に溝口にある母の実家で生まれた。3歳まで東京で両親と過ごしたが、病弱なために祖父の家に預けられた。それが大山街道沿いに建っていた和菓子店の大和屋だった。宗隆寺に墓所がある。

 

江戸への物流の大動脈だった頃の面影を探して旧街道を散策

灰吹屋薬局の蔵(左)はかつての大山街道の様子を今に伝える。よろずやとして宝暦年間に創業した田中屋(右)は、江戸幕府から度量衡販売の免許を受けてはかり屋として栄えた。また製茶工場を建て茶の製造販売も行っている。

 さて大山街道へ。江戸・赤坂御門を基点に、大山阿夫利(おおやまあふり)神社(神奈川県伊勢原市)まで続く街道のことだ。かつて大山は雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、多くの人々が雨乞いのために訪れた。また駿河の茶や真綿、伊豆の椎茸や乾魚、秦野のたばこなどを江戸に運ぶ大切な輸送路としても利用された。二子と溝口には宿駅が置かれ、たいそうにぎわったという。
「沿道の商店は建て替えが進みましたが、古い蔵造りの建物は現在も数軒残っています」(今井さん)
 そのひとつが、1765(明和2)年創業の灰吹屋薬局。店舗としてこそ使っていないが、蔵は現存し、大山街道のランドマークになっている。また大山街道ふるさと館には、歴史的資料が展示されている。

ぶら高津区(3)久地円筒分水 (4)橘樹官衙遺跡群

二ヶ領用水は、徳川家康の命で14 年もの歳月をかけて1611(慶長16)年に造られた農業用水路だ。久地円筒分水は、その水を4つの堀に公平に分け流すため、下から吹き上がってくる水を円周比によって分けている。

 

今も水を4分割し続けている久地円筒分水から二ヶ領用水の遊歩道へ

区内を流れる二ヶ領用水。あちこちで野鳥が羽を休める姿も見られ、区民の目を楽しませてくれる。なおカラー化した大山街道の写真は、二ヶ領用水に架けられた大石橋のたもとである。

 大山街道の高津交差点には、宝暦年間(18世紀半ば)に創業したお茶の田中屋がある。同店で昔ながらの製法を伝える武州茶をいただき、国登録有形文化財の久地円筒分水を目指した。かつて二ヶ領本川から取り入れられた水は久地分量樋で4つの堀へと分けられていたが、水の配分をめぐる争いが絶えなかった。そこで造られたのが円筒分水。1941(昭和16)年に完成した。
 高津区にははるか昔の史跡もある。7世紀から10世紀の古代行政の推移を知る上できわめて重要な橘樹官衙遺跡群だ。
 古くから人と水の行き来だけでなく、古代には政治の中枢もあったとは、なるほど高津区は奥が深い。

高津区トリビア

ヤクルトファンがお詣りするお寺が?
 大山街道沿いにある宗隆寺(そうりゅうじ)は、ヤクルトスワローズの村上宗隆選手と同じ名であり、監督と同名の「高津」区にあることが縁で、ファンによる参拝が増えた。

超ぜいたくな文化人のコラボ!
 二子神社にある歌人の岡本かの子氏を顕彰する文学碑「誇り」は、息子の岡本太郎氏が制作。築山と台座は建築家・丹下健三氏。碑文は文芸評論家・亀井勝一郎氏の文を、川端康成氏が筆を取った。

ぶら宮前区

起伏に富んだ地形がもたらしたものは何か?

 宮前区は坂の多い街。台地と谷戸の多彩な地形が恵みをもたらしてくれた。都市農業でメロンや花桃など高品質な作物で有名なのはもちろん、最近はサッカーでも“ 鷺沼兄弟” が話題になっている?

ぶら宮前区(1)鷺沼小学校

 

W 杯で世界を驚かせた“鷺沼兄弟” 坂の多い街が体力を養った?

鷺沼小学校のフェンスに張られていた横断幕。『平成21年度卒業三笘薫選手 平成22年度卒業 田中碧選手』の文字が誇らしげに踊る。少年時代の三笘・田中両選手が、坂の多いこの地域を行き来していた様子をつい想像してしまう。

 東急田園都市線鷺沼駅で下車し、鷺沼駅前交差点を右折すると、春待坂と呼ばれる長い坂が現れた。 宮前区には坂道が多く、そのうち18か所には区民からの公募で愛称が付けられたという。西向きの斜面なので桜の開花が他所よりちょっと遅い。春を待つというイメージで名付けられた坂を下っていく。
 道路の両側に200mにもわたって桜並木が続く。開花は少々遅くても、いざ咲いたらそれはそれは見事な光景だろう。
 坂を下りきると、『鷺沼から世界へ』の横断幕が目に入ってくる。なんとここは2022FIFAワールドカップで大活躍をした三笘薫、田中碧選手が卒業した鷺沼小学校なのだ。2人の体力は、坂の多い地域で育ったから養われたと言ったら、ちょっと言い過ぎ?

ぶら宮前区(2)カッパーク鷺沼

正式名称は川崎市水道局鷺沼プール。市水道局が運営していた。屋外プールで営業は夏だけだが、1984(昭和59)年には2ヶ月弱で52 万人もが訪れたという。六角プールは大人専用。子どもが入ると監視員に注意されたが、挑戦する小学生は後を絶たなかった。

 

思い出の鷺沼プールの跡地では、フットサルの若者たちが

 続いてカッパーク鷺沼を訪ねた。かつて鷺沼プールがあった場所だ。東急田園都市線の開通による住宅開発に伴い、1967(昭和42)年に、川崎市水道局鷺沼配水池が設置された。その屋上部を有効活用するために、翌年、プールがオープン。子ども向けプールの他に、水深180cmもある六角プールがあった。「身長よりも深い六角プールに入った子どもは、威張っていたなんて話もよく聞きます」 とは、宮前区役所のふたり。
 しかし利用者の減少を受けて2002(平成14)年に廃止。今では教育、広場・公園、運動施設、福祉の4つのゾーンに分けられて活用されている。
 フットサルコートを6面持つ「フロンタウンさぎぬま」もある。この日は地元の高校生が練習をしていたのだが、とにかくうまい。感心して声をかけたら、「自分たちなんて全然です」との答えが返ってきた。この地区のサッカーレベルの高さを実感したのである。

ぶら宮前区(3)尻手黒川道路

尻手黒川道路は、市内南東部から北西部の住宅地までを結ぶ幹線道路。川崎市全7 区のうち5 区を通過する。また東名川崎インターチェンジに直接繋がっているので、交通量は多い。今では沿道のほとんどは住宅地。

 

肥沃な土壌により宮前区は今も都市農業が盛ん

馬絹での花作りは大正時代に盛んになり、室という地下室で開花時期を調整して出荷された。現在も馬絹の花桃は、桃の節句に大いに喜ばれている。

 次に向かったのは、尻手黒川道路の金山交差点。 沿道周辺に宅地もない時代があった。1947(昭和22)年に右下の写真を撮影した田村隆司さんは、「当時は田んぼや畑が広がっていたんですよ。これは農地改革に伴って測量したときのものです」と語る。
 「川崎歴史ガイド」によると、宮前区南半部は台地に小さな谷が入り込んでおり起伏に富んでいた。土壌は、厚く堆積する富士山の火山灰(関東ローム層)に腐食した枯れ草などが混ざっており、肥沃で水はけが良かった。そのため古くから麦などの畑作農業が盛んに行われたそうだ。明治時代以降は東京から近い利便性を生かし、花や野菜など新しい農作物が導入されるようになった。宮前メロンや江戸時代から生産された馬絹の花桃など、ブランド化した作物もある。
 一方、1966(昭和41)年の東急田園都市線溝の口~長津田(横浜市)開通、1968(昭和43)年の東名高速道路開通後は、宅地開発が急速に進んでいった。
 今、金山交差点付近には、JR貨物の梶ヶ谷貨物ターミナル駅がある。家庭ごみをごみ処理場に輸送する列車「クリーンかわさき号」の始発駅にもなっている。高度経済成長期の発展を経て、今は地球環境への優しさを示す場所ともいえるのだ。

1968(昭和43)年4月25日に東名高速道路東京〜厚木IC 間が開通し、東名川崎インターチェンジも運用が開始。当時のIC 付近には宅地も少なく、緑がいっぱいな様子。東名高速道路開業当初の利用台数は約14 万台、2017(平成29)年には約40 万台を超えた。

宮前区トリビア

脚のないお化け灯籠
 東京・赤坂の旧陸軍東部62 部隊の兵舎に置かれていた灯籠は、夜に化けて徘徊したということで、動かないように足を切られたという。部隊が川崎に移転する際、灯籠も移動して来た。脚のないまま、現在は川崎市青少年の家に置かれている。

“ 宮前兄妹” の名前の由来は?

兄の名は「メロー」。区の花・コスモスの花飾りが似合う妹の名は「コスミン」。区名産の宮前メロンの畑から、2012(平成24)年に、宮前区誕生30 周年を祝うためやってきた。

ぶら多摩区

豊かな自然は時代の変化をどう見てきたのか?

 多摩区には生田緑地などの広大な丘陵地が広がっていて、今も市民の憩いの場として知られています。ここに遊園地があったのはもう20 年も前のこと。まちの移り変わりの記憶をたどってぶら歩き。

ぶら多摩区(1)向ヶ丘遊園

梨の栽培は江戸時代から現在の川崎区で行われていたが、工業地帯に変貌。代わりに昭和初期から現・多摩区での栽培が盛んになった。昭和30年代に入り、梨のもぎ取りがブームに。現在では「幸水」や「豊水」などさまざまな品種が栽培されている。
“ 花と緑の遊園地” として親しまれ、1958(昭和33)年に園内にオープンしたばら苑では、約1000 種約2万株ものバラを楽しめた。1968(昭和43)年には正門前までモノレールが開通。最盛期の1990(平成2)年度には約95 万人も入場、営業収入も約27 億円を誇った。

 

小田急線に乗って遊園地に行き帰りは梨を買って帰る

駅舎(左)はナチュラル・レトロモダンをコンセプトに、2020(令和2)年にリニューアルされた。遊園跡地に向かう五ヶ村堀緑地遊歩道(右)には、モノレール橋脚の3 分の1スケールのオブジェが立ち、橋脚跡にプレートが埋められている。

 1927(昭和2)年の開業当初は、向ヶ丘遊園という駅名ではなかったことを知っている人は、ごく少数なのではないか。稲田登戸駅という名前だったのだ。駅名が改称されたのは、1955(昭和30)年のこと。もちろん向ヶ丘遊園の名称に合わせたものだ。
「向ヶ丘遊園は小田急線開通(稲田登戸駅開業)と同時に、無料の遊園地としてオープンしました」
 と歴史を説明するのは、多摩区役所の那須大輔さん。さらに続けて、「多摩区では梨の栽培が盛んに行われていたこともあって、小田急電鉄は向ヶ丘遊園の宣伝と共に、新宿駅で梨狩りの案内を積極的に展開したそうです。
 高度経済成長期には、「向ヶ丘遊園で遊んで梨を土産に帰る」郊外型のレジャーが定着。1970年代以降は、遊園にアトラクションが続々登場した。

ぶら多摩区(2)生田緑地

 

生田緑地の裾野に建てられた川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム

藤子・F・不二雄ミュージアム(左)には、氏が描いた原画や仕事机などが展

 向ヶ丘遊園駅と向ヶ丘遊園正門まではモノレールも走り、大いににぎわっていたが、遊園は2002( 平成14)年に閉園。モノレー
ルも撤去開始された。
 駅からモノレール跡沿いに歩くこと、十数分。かつての正門があった場所に着くと今も、「花の大階段」の跡が見える。
 そこから北西数百m先には生田緑地が広がり、緑地内には鎌倉幕府の御家人・稲毛三郎重成が城を構えた枡形山(標高84m)がある。重成は、現在の川崎市中原区から南多摩の一部までを統治していたとされる。ちなみに重成は、源頼朝の妻・北条政子の妹を妻に迎えており、一説ではその妻が嫁入り道具の一つとして鎌倉から「のらぼう菜」の種を持ってきたと伝えられている。その結果、多摩区菅地区にのらぼう菜が伝わったといわれている。また向ヶ丘遊園も、当初は枡形山に「枡形山遊園地」として建設される予定だったという。
 向ヶ丘遊園の閉園後、生田緑地ばら苑は市が受け継ぎ、ばらの開花時期に合わせて年2回開苑している。さらに、正門付近の跡地を利用して2011(平成23)年に完成したのが、「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」。藤子・F・不二雄氏が長く多摩区に住んでいたことから建てられた。その縁のおかげで、多摩区にはドラえもんやパーマンなど数多くのモニュメントが立っている。小田急線の登戸駅と向ヶ丘遊園駅、JRの宿河原駅の前、ばら苑アクセスロードなどで、お馴染みのキャラクターを見つけてほしい。

ぶら多摩区(3)登戸の渡し

 

登戸を通る津久井道は、江戸のシルクロードだった

 続いて向かったのは、登戸の渡しの跡地。登戸駅至近の多摩川沿いにある。まだ多摩川に橋のない時代、人々は川を舟で渡った。川崎市内では、確認されたものだけで20か所の渡し場跡がある。東京・三軒茶屋から登戸を通って相模原市津久井に至る津久井道は、津久井で生産される絹を江戸に運んだシルク・ロード。登戸の渡しは、人々と美しい絹を積んでいた。
「今ではラフティングボートなどの体験会やいかだレースのイベントなども開かれています」
 多摩区役所の田邊光介さんが語る。渡し船こそないが、釣りや野鳥観察、ジョギングなど、自然の恵みを堪能する人を多く見かけた。
 多摩区の歴史と自然を満喫した1日だった。

多摩区トリビア

いなげやの名前は豪族から?
 全国に132 店舗を構えるスーパーいなげや。1900(明治33)年に開店する際、創業者の猿渡波蔵氏が、出生地一帯を統治していた豪族・稲毛三郎重成にあやかって命名した。

特撮もののメッカだった?
 東映生田スタジオや円谷プロが近くにあったため、向ヶ丘遊園は特撮番組のロケ地としてよく使われた。「仮面ライダー」シリーズや「ウルトラセブン」などに登場する。

ぶら麻生区

豊かな里山とベッドタウンの共存が憧れの街を生んだ?

 麻生区といえば憧れの新百合ヶ丘が思い出されますが、百合ヶ丘駅周辺に開発された百合ヶ丘団地の方が、憧れの街の先輩。豊かな里山を残しながら、ベッドタウンとして成長してきたこの街をぶら歩き。

ぶら麻生区(1)百合ヶ丘駅

団地は起伏のある里山を切り開いて造られたので、随所に石垣がある。半世紀以上前に撮られた写真と同じ場所を探す際、石垣を参考にした。当時の百合ヶ丘団地には、上から見るとY字型をした建物もあった。ほぼ正方形の居室棟3棟がYの字型に結合しているもので、スターハウスと呼ばれていた。同じような建築が並ぶ団地の景観にアクセントを与える意味もあったといわれる。

麻生区のベッドタウン化は百合ヶ丘団地から始まった

 小田急線百合ヶ丘駅で下車し、南口から柳通りに出ると、川崎市内にだけ4店舗を構えるスーパーマーケット・ゆりストアの本店があった。
 よく見ると、店舗建て替えのために2023(令和5)年1月15日から一時閉店という張り紙が(訪問したのは前年12月)。同店は百合ヶ丘駅が開業した1960(昭和35)年に創業。高度経済成長期からずっと、この街の人々の生活を支えてきたわけだ。
 百合ヶ丘駅周辺の里山を切り開いて住宅地として開発されたのは、1960(昭和35)年前後。発展の中心を担ったのが百合ヶ丘団地だった。地主らが日本住宅公団(現・UR都市機構)に約14万坪もの土地を譲渡し、近代的な団地が建設された。柳通りの弘法の松
交差点までの間に第1団地、交差点の先に第2団地が造られ、駅やゆりストアと同じく1960(昭和35)年から入居が始まり、ニュータウンが生まれた。
 百合ヶ丘駅の隣り(小田原側)の新百合ヶ丘駅は、1974(昭和49)年の開業。百合ヶ丘駅には停まらない急行、快速急行、さらにロマンスカーの一部も停まる。駅周辺は2000年代に入って開発が進み、大型商業施設も次々とオープンしている。

ぶら麻生区(2)百合ヶ丘団地

 

喜劇駅前シリーズの舞台にもなった憧れの団地生活

百合ヶ丘駅前(左)とサンラフレ百合ヶ丘。百合ヶ丘団地建設の際に土地を提供した地主には優先して駅前商業地の土地が譲渡され、商店街が形成されていったという。半世紀経った今も駅前が落ち着いた雰囲気なのは、そうした経緯があるからだろうか。閑静な住宅街の趣が、駅周辺と団地から感じ取れる。

 「百合ヶ丘団地は近代的な造りで、トイレは洋式。キッチンはステンレスで、人々が住みたいと憧れる場所だったそうです。そこを舞台にした映画『喜劇駅前団地』(森繁久彌主演)も作られました。映画を観るとその頃の生活ぶりがかいまられます」
 当時の団地の説明をしてくれたのは、麻生区役所の市川恵理さん。では現在の団地はどうなっているのか。まずは弘法の松交差点を目指し、緩やかな坂を登っていく。交差点に至る前に、左側にサンラフレ百合ヶ丘という団地が見えてきた。老朽化した第1団地を建て替えたものだ。高台にあるため、団地の敷地内から富士山を見ることもできる。
 かつての団地には若い夫婦が多く住み、公園で遊ぶ子どもたちの声が聞こえていたことだろう。現在はテニスコートが充実しており、年輩者が楽しげにプレーをしていた。その1人にブランコのある公園はないかと尋ねて、教えてもらった。そこは、半世紀以上前に撮影された写真と同じ場所のようだ。平日の昼ということもあるのだろうが、ブランコは無人。歓声を上げている子どもたちを想像してみるのだった。

ぶら麻生区(3)

初代の松は、火難に遭った後も10年程残されていた。植え替えられた松の手入れ中の職人さんが教えてくれた。「植え替えの際には2本植え、いい方を残すということでした。これが残った方の1本です」

 

樹齢数百年の松は焼けてしまい植え替えられた松が育っていた

山頂は平坦で、ブランコやすべり台のある公園になっている。巨木が立っていた場所には「弘法松跡」という石碑が立つ。展望広場があって、近くは高尾山、そして蛭ヶ岳や塔ノ岳といった丹沢山塊が見え、さらにその先には富士山の姿も。

 続いて弘法松公園へ。弘法とはいうまでもなく、弘法大師空海のこと。空海上人ゆかりの松を見るべく、標高118mの山を登った。さてどんな古木と対面できるのかと思いきや……。市川さんが言う。
「かつては高さ32m、幹回り7m、根回り11mもある樹齢数百年を越える黒松の大木がありました。県の天然記念物でしたが、1956(昭和31 )年に火難に遭い燃えてしまいました。現在の松は、2012(平成24)年に植え替えられたものです」
 植え替えられた松はまだ若い。これからの成長が楽しみだ。公園南西部の展望広場に行って気分爽快。山々が連なる景色を見て、とても清々しい気持ちで坂を下りることができたのだ。

麻生区トリビア

弘法の松で仮面ライダーが?
 東映生田撮影所が近いこともあり、特撮愛好家の間では仮面ライダーがショッカーの怪人と戦うシーンの撮影は弘法の松公園でも行われていたのでは?と言われている。

なぜ弘法の松と呼ばれる?
 この地を気に入った弘法大師は「谷が100 あれば寺を作ろう」と考えたが、99谷しかなく断念。帰るにあたって松の枝を差したところ、根が生え繁茂したなどの言い伝えがある。