大山街道コース(大山小径で大山詣り)
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大山小径で大山詣り
大山街道は、江戸の赤坂御門を起点に多摩川を渡り、二子、溝口を経て、馬絹、荏田、伊勢原、矢倉沢へ至っている。この道は丹沢の大山詣りの道として知られ、大山山頂の阿夫利神社は雨乞いの信仰も集め、五穀豊穣や商売繁盛を願う人々でにぎわい、大山道、大山街道と呼ばれていた。相模川でとれた鮎や秦野の煙草なども、この道を通って江戸へ運ばれた。街道の商人達は江戸後期から、製造業と卸・仲買いを営むなど驚くべき繁栄をとげていく。
正確には、大山街道は矢倉沢往還という。街道とは、道中奉行所が管轄し、運輸・通信・休泊の機能を備えており、その代表例が東海道。往還とは、公用旅行者のため伝馬・人足を備える継立村があり、休泊の機能も備わっているもの。二子・溝口村は、寛文9年(1669年)に継立村となった。道はこれ以外のものをさすといわれている。二子・溝口村が継立村となった後、久地・諏訪河原・久本・末長の4ヶ村が二子村の、北見方・上作延・下作延の3ヶ村が溝口の助郷村になり、継立村で用意する伝馬・人足が不足の場合は提供することになった。これらは農民の負担であった。また、農作業をしながら出役の時間を知る方法として、天保5年(1834年)には光明寺の了解を得て、代官所へ同鐘を時の鐘として使うことを申し出て、許されている。
大山街道コース
全行程:3.7km
所要時間:約2時間
A.二子新地駅 ↓ 250m B.二子の渡し ↓ 60m C.二子神社と岡本かの子文学碑 ↓ 300m D.大貫家跡 ↓ 50m E.光明寺 ↓ 400m F.溝口緑地と国木田独歩の碑 ↓ 300m G.灰吹屋 ↓ 60m H.大山小径 ↓ 100m I.民権運動と上田家 ↓ 90m J.大山街道ふるさと館 ↓ 20m K.濱田庄司ゆかりの家 ↓ 30m L.糀ホールとギャラリー糀 ↓ 60m M.二ヶ領用水と大石橋 ↓ 240m N.溝口神社 ↓ 90m O.宗隆寺と御会式、万灯 ↓ 350m P.庚申塔と大山道標 ↓ 160m Q.高津区役所 ↓ 330m R.ねもじり坂 ↓ 340m S.笹の原の子育て地蔵 ↓ 390m T.梶が谷駅
B.二子の渡し
二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。江戸時代には大山詣りの参拝客などで賑わい、また相模地方の産物を江戸に送る流通経路としても利用された。渇水期となる冬は土橋を、その他のときは渡し船を使い、武士は無料だった。現在は二子の渡し場に通じる道標が残っている。
C.二子神社と岡本かの子文学碑
境内にはかの子の息子、岡本太郎の作で「誇り」と題する彫刻がある。台座と築山は丹下健三が設計した。また、台座には川端康成の揮毫で「としとしにわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」というかの子の歌碑がある。
D.大貫家跡
大貫家は江戸時代には幕府の御用をつとめたことのある商家で、雪之助、かの子兄弟の実家だった。かの子は4才から13才までこの地で暮らした。雪之助は島崎藤村門下で、将来を期待されながら24才で亡くなった。ロシア文学のツルゲーネフ「煙」やトルストイ「灰色の兎」は、雪之助が日本で初めて翻訳した作品で先駆的な業績だった。
E.光明寺
明治時代には二子学舎が置かれ、近代小学教育の場となった。境内には大貫雪之助の墓がある。
F.溝口緑地と国木田独歩の碑
旧亀屋(旅人宿)に一泊した独歩は、その主人を「忘れえぬ人々」の一人として描いた。昭和9年(1934年)、亀屋主人、鈴木久吉の立案で建てられ、題字は島崎藤村によるものである。平成14年(2002年)旧亀屋跡から高津図書館前へ移設された。
G.灰吹屋
灰吹屋薬局は江戸時代に鈴木仁兵衛が創業し、街道で唯一の薬屋として繁盛していた。店舗として使われていた蔵が今も残されている。
H.大山小径
街道から高津こども文化センターへ続く道。道の両脇には江戸時代に発行された「新板往来双六」を参考に、大山までの街道を紹介したタイルが埋まっている。
I.民権運動と上田家
江戸に出店を持つ醤油屋で、質屋も営む上田家の7代目、上田忠一郎は、甥に家業を譲り政治の世界に入った。明治12年(1879年)には神奈川県で最初の県会がひらかれ、忠一郎が選ばれている。立憲政治の実現をめざす自由民権運動が各地に広まった明治初期、上田家にはさまざまな民権運動家達が訪れ、サロンになっていた。明治14年(1881年)には民権結社である橘樹郡親睦会を結成するなど、忠一郎は財産をなげうって民権運動につくした。
J.大山街道ふるさと館
大山街道及び地域に関するさまざまな資料を展示している。大山街道歩きの際に気軽に立ち寄れる休憩スポットとしても利用できる。また、講演会やまち歩きなどのイベントも毎年開催されている。
K.濱田庄司 ゆかりの家
濱田庄司は第1回人間国宝で、溝口に生まれ、幼少の一時期を祖父の家であったここ大和屋で暮らした。庄司は栃木県益子で制作し、民芸品としての益子焼に高い芸術性を与えた。お墓は宗隆寺にある。
L.糀(こうじ)ホールとギャラリー糀
明治元年(1868年)に創業した岩崎酒店は屋号を糀といい、最初は濁り酒を造っていた。後に越後から杜氏を呼び清酒を造るが、戦時中の統制法により川崎酒造に統合したため、現在は酒類を販売し、不要となった醸造蔵跡地を音楽ホール及びギャラリーとした。
M.二ヶ領用水と大石橋
二ヶ領用水にかかる橋で、昔は二枚の大きな石でかけられていた。
N.溝口神社
この辺りは飲み水に不自由し、参道脇の水神宮や水道組合碑から当時の苦労がしのばれる。また勝海舟の大のぼりは、明治9年(1876年)、自筆によるもので今は珍しい“杜宝”となっている。正月3が日間に見ることができる。
O.宗隆寺と御会式、万灯
毎年10月21日の御会式には多くの万灯が集まる。ここにある芭蕉の句碑は、大山街道からみた田植えの情景がこの句に似ていることから、灰吹屋の鈴木仁兵衛がつくったもの。
P.庚申塔と大山道標
片町の十字路に江戸時代の道標をかねた庚申塔がある。青面金剛が邪鬼を踏んで立ち、下に見ざる言わざる聞かざるの三猿が刻まれている。庚申待ちは、庚申の夜に眠ると人の体にいる三尸(さんし)が抜け出して、罪を天帝に告げるといわれ、世間ばなしや村の決めごとなどをして徹夜する俗習。
R.ねもじり坂
「ねもじり」の由来は明らかでない。昔はあまりに急坂で、東京へ野菜を運び、帰りに下肥を積んでくる牛車・荷車などにとっては難所であり、腹が減るので「はらへり坂」とも呼ばれた。
S.笹の原の子育て地蔵
昔、子供を授からない夫婦が四国八十八ヶ所を巡拝して、子供を授かったのでお礼に地蔵尊を建立した。12年ごとに開帳される「都筑橘樹酉年地蔵」の第18番札所にあたる。平成5年(1993年)、酉年の御開帳にあわせて新しいお堂がつくられた。
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コースマップ表紙、解説面
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