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円筒分水と久地不動尊コース(水の歴史をしのぶ道)

  • 公開日:
  • 更新日:

水の歴史をしのぶ道

円筒分水と久地不動尊コース

全行程:4.5km

所要時間:約2時間

A.溝口駅北口

↓ 300m

B.宗隆寺

↓ 230m

C.二ヶ領用水

↓ 600m

D.久地円筒分水

↓ 110m

E.久地神社

↓ 250m

F.久地不動尊

↓ 520m

G.久地梅林公園

↓ 300m

H.養周院

↓ 580m

I.久地かすみ堤

↓ 760m

J.多摩川

↓ 560m

K.岡本かの子文学碑

↓ 80m

L.二子神社

↓ 210m

M.二子新地駅東口

C.二ヶ領用水

 徳川家康の新田開発の命を受けた代官小泉次大夫により開削された農業用水路。14年の歳月をかけ、慶長16年(1611年)に完成。当時の川崎領と稲毛領の広大な水田を潤し米の収穫量が飛躍的に伸びた。現在では農業用水の役割をほぼ終えつつあるが、憩いや安らぎを与える水と緑の空間として多くの市民に愛され、親しまれている。

D.久地円筒分水

 二ヶ領用水は久地分量樋で4つの堀に分けられていたが、用水をめぐる水争いが絶えなかった。そこで、平瀬川の改修に際し、農業用水を正確な比率で分水する装置として平賀栄治が設計し、昭和16年(1941年)に完成した。サイフォンの原理を応用して円筒の円周比により4つの堀に分水するしくみは、当時の科学技術の粋を集めたもので、各地の円筒分水のモデルとなった。

E.久地神社

 新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代は赤城社として久地村の鎮守であった。明治期に神仏分離によりご神体の毘沙門天を浄元寺に遷し、天照大御神を主祭神として久地神社と改称した。現社殿は昭和41年(1966年) に再建された。

F.久地不動尊

 元は、東京浅草の吉原にあったが、不動明王の「静かな場所に移せ」とのお告げを受け、久地の地に移った。移転の前に関東大震災がおこり、寺は全焼したが、不動明王は自ら古井戸に飛び込み難を逃れたという逸話が残っている。参道右手にある弁天池は、雨乞いの池として信仰された。

G.久地梅林公園

 享保年間に久地村の庄屋が屋敷内外に梅数百本を植えたのが久地梅林の始まり。その一部が平成14年(2002年)に公園として整備され、さまざまな種類の梅が植えられて往時をしのばせている。園内には北原白秋が当地で詠んだ歌碑もある。
 また、周辺の久地・宇奈根には日本のものづくりを支える町工場が多く立地し、公園も使って地域の人々との交流を深める取組が進められている。

H.養周院

 安土桃山時代に建立されたと伝えられる曹洞宗の寺院。安政、文久年間の多摩川の大洪水で流失し、現在地へ移ったという。その後、度々の火災にも遭い、現在の本堂は昭和52年(1977年)の建立である。境内に石持地蔵や古い地蔵型庚申塔 (寛文3年(1663年))等がある。

I.久地かすみ堤

 地域の人々から「かすみ堤」と呼ばれて親しまれてきた旧堤防。江戸時代中期の築造で、大正時代に拡張・改修されて現在の形状になったと考えられている。国が西側約250mの売却を予定していたが、地域住民の思いや、近年の温暖化の影響による豪雨災害の頻発なども踏まえ、改めて河川堤防として保全されることになった。

J.多摩川

 源流は山梨県笠取山、河口は羽田沖の東京湾。全長138km。流域面積1,240k平方メートル。下流域において東京都と神奈川県の県境としての役割も担う。川崎市では、川崎のシンボルである多摩川を生かしたまちづくりに、隣接した世田谷区・東急電鉄とも連携しながら取り組んでいる。

K.岡本かの子文学碑

 地元有志の発意により岡本太郎が丹下健三の協力を得て昭和37年(1962年)11月に二子神社の境内に建立。父・岡本一平と母・かの子がこよなく愛したこの地、二子の多摩川のほとりを懐かしみ、「誇り」と命名した。
 また、かの子の実績を讃える亀井勝一郎による文を川端康成の直筆により刻んだ石碑もある。

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