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関東下知状

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2010年2月16日

関東下知状

関東下知状 1通
附 極札 1枚

年代

1221年(承久3年)

法量

縦30.0cm 横40.0cm 軸装

所有者

川崎市

所在地

中原区等々力1-2(市民ミュージアム)

指定

市重要歴史記念物 平成21年4月28日

解説

この文書は、承久3年8月30日付けで、鎌倉幕府執権北条義時が関東御領である肥前国高来西郷(長崎県雲仙市内)と、前大僧正慈円領である武蔵国稲毛本庄(本市中原区域)との相博(交換)を下知したものである。

  1. 武蔵国稲毛庄及び関東御領に関する資料としての意義
     中世武蔵国橘樹郡に展開した稲毛庄は、開発領主は明確ではないが平安時代後期までには摂関家領として立荘され、早い時期に本庄と新庄に分割された。この内本庄は、現存する記録によれば治承4年(1180年)5月に、藤原忠通の娘聖子(崇徳后 皇嘉門院)から甥の九条良通(父は九条兼実)に譲られ、その後元久元年(1204年)以前に兼実の弟慈円が管掌する延暦寺大乗院に寄進された。そして慈円は建暦3年(建保元年 1213年)2月に稲毛本庄を後鳥羽上皇の皇子朝仁親王に譲ったものの、承久の乱後に鎌倉幕府を憚ってこの処分を撤回している。そして承久3年(1221年)8月に鎌倉幕府は稲毛本庄と関東御領肥前国高来西郷の相博を決定し、以後稲毛本庄は関東御領となったが、幕府政治が執権政治から得宗専制政治へと進む中で、本庄は事実上の北条氏得宗家領となっていった。ちなみに稲毛新庄は九条兼実から娘の任子(後鳥羽后 宜秋門院)に譲られ、その後甥の九条道家(父は九条良経)、さらに道家の男一条実経にわたり、鎌倉時代には概ね摂関家領として続いたものと思われる。
     稲毛庄の歴史ないし実態を証する史料は数が限られているが、その中で本文書は、従来は摂関家関連荘園であった稲毛本庄が、承久の乱の直後に関東御領に転じたことを示すきわめて重要な意義を持つものである。
     そもそも関東御領とは、鎌倉幕府将軍家(鎌倉殿)を領家または本家とする荘園及び国衙領のことであるが、その成立の由来は元来の源氏家領、平家没官領、承久の乱後の没収地などであり、本文書に見られる肥前国高来西郷も平家没官領であったのを後白河上皇が源頼朝に与えたものであった。そして関東御領に関しては、伝存する関係史料が乏しくその全貌は明らかになっていないが、本文書は他家領との相博による成立という契機の存在を示しているのであり、この点からも本文書の持つ意義は大きいと言える。
  2. 北条義時ないし執権北条氏に関する資料としての意義
     本文書の古文書学上の様式分類は、中世武家文書の一つの「下知状」に属するものであり、文末のいわゆる書止め文言が「下知如件」と記されることを特徴とし、下文と御教書の折衷的様式として、鎌倉時代には幕府による特権免許、制札、禁制、譲与安堵などに用いられた。とくに訴訟の判決文として用いられる下知状は、裁許下知状・裁許状と呼ばれる。そして鎌倉時代には初代執権北条時政以後、文言を「依(鎌倉殿)仰下知如件」と結び、時の執権及び連署が署判を据える形式が通例となって「関東下知状」と呼ばれた。
     鎌倉時代中期以降、幕府政治が執権政治から得宗専制政治へと推移する過程で発給された関東下知状は、執権北条氏ないし得宗家が、将軍(鎌倉殿)が本来的に備えていた「安堵」(御家人の保護・統括)と「理非」(訴訟裁決に代表される施政)の権限を、随時掌握していく様相を示すものであるが、本文書のように関東下知状が関東御領についての措置という将軍家(幕府)の財政に関しても用いられたこと、換言すれば執権北条氏がその方面においても裁量権をもっていたことが分かる点も、本文書の重要な意義と言えよう。
     本文書の署判者北条義時は、時政の嫡男として鎌倉幕府の成立当初より重要な立場にあり、とくに第3代将軍源実朝の下で時政が初代執権に就任すると、義時は父を補佐して幕府政治を支えた。そして元久2年(1205年)、時政が失脚した後は第2代執権として幕府を主導し、さらに承久元年(1219年)に実朝が暗殺され将軍が不在になると(第4代藤原頼経の将軍職就任は嘉禄2年=1226年)、執権義時は名実ともに幕府の最高指導者になった。そのことを如実に示す義時単独署判の関東下知状は、とりわけ承久の乱後に多く発給されたが、本文書もその好例として良いであろう。

 最後に関連として、稲毛本庄の関東御領化と執権北条氏の武蔵国との関わりについて述べる。北条氏は時政の時代には幕府草創者源頼朝の舅という立場で、鎌倉御家人の上位に位置しており、所領・地盤の点では他の有力御家人に比べ脆弱であった。そこで時政は幕府内での地位向上に連動して、北条氏独自の地盤として武蔵・相模2国の獲得を目指すようになったものと思われる。具体的には建仁3年(1203年)から元久2年(1205年)にかけて、比企能員・畠山重忠という武蔵国の有力豪族を排除したことと、義時の代になってからであるが、承元3年(1209年)に義時の弟時房を武蔵守に就任させて武蔵国衙の掌握を図ったこと等に北条氏の意図が現れている。そして本文書に見られるように、関東下知状をもって武蔵国稲毛本庄を、自己の裁量下に置くことのできる関東御領としたことも、上述した武蔵国支配という北条氏の意図の表れと捉えることができよう。ちなみに相模国については、建保元年(1213年)の侍所別当和田義盛の没落、宝治元年(1247年)の三浦氏惣領家の滅亡を経て、相模守護職が幕府政所・侍所の管掌となり実質的には北条氏の支配下に置かれることになり、以後北条氏の執権・連署は相模守と武蔵守の官途を継承するようになった。

 以上述べたように、本文書に現れた歴史事象は稲毛庄の歴史及び鎌倉幕府政治の推移の一齣を示すものであり、その意味で本文書は川崎市の歴史を考える上で極めて重要な意義を持つと言える。

附 極札

関東下知状極札表

「北条陸奥守殿義時朝臣 以武蔵國 御判形」

関東下知状極札裏

「承久三年八月丗日文 己未極」
延宝7年(1679年=己未)、古筆了祐により発給者・発給年月日等を極めたもの。

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