无射志国荏原評銘文字瓦

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2018年7月20日

无射志国荏原評銘文字瓦

无射志国荏原評銘文字瓦

年代

7世紀後半

法量

長さ31.4cm、幅23.8cm、厚さ2.1cm(現状)

所有者

川崎市

所在地

中原区等々力1-2(市民ミュージアム)

指定

市重要歴史記念物 平成15年4月22日

解説

 本文字瓦は、昭和52年~56年度に実施した川崎市高津区影向寺文化財総合調査の発掘調査で、影向寺薬師堂西側に設定したトレンチ内から発見された平瓦(女瓦)である。
 同じ瓦の小破片13点が接合されたもので、大きさは長さ約31.4cm、幅約23.8cm、厚さ約2.1cmであるが、焼成は不良で、全体的に脆弱であり、全体の約3分の1は欠損している。この瓦凸面のほぼ中央部に「无射志国荏原評」の文字が判読できる。文字は、焼成前に箆(へら)ないし箆(へら)のような工具類で刻まれたと推定される。文字の字体は、かなり文字慣れした人の手によるものと思われ、軽快で端正な筆致で書かれている。7世紀第3四半期と想定される千葉県印旛郡栄町の龍角寺五斗蒔瓦窯跡出土の文字瓦と比較すれば、本文字瓦に刻まれた文字の洗練さがよく理解できる。
 「无射志」の表記は、『古事記』(上巻)に「无射志国造」、『万葉集』(3376、3379)に「无射志野」という類似表記が見え、いずれも「むざし」と読む。「无射志」は、後に一般的に「武蔵」の2字で表記されるようになる武蔵国の「武蔵」である。また、「荏原評」の「荏原」は、旧武蔵国南東部の地名で律令制下の荏原郡にあたり、現在の東京都品川区・大田区・目黒区・世田谷区の範囲である。したがって、「无射志国荏原評」の銘文は、「むざしのくにのえばらこおり」と読むことができる。
 この銘文の特徴は、荏原評の「評」の字と「荏原」の地名にある。「評」は、7世紀半ば頃から施行された国の下位に位置する地方行政組織名で、大宝元年(701)に施行された大宝令以前の遺跡から出土する木簡等に見られ、大宝令によって「郡」に改められた。「評」と「郡」の字は、両者とも「こおり」と読む。また、「无射志国荏原評」のような「国評」の記載は、現在のところ、奈良文化財研究所飛鳥藤原京跡発掘調査部による石神遺跡第15次発掘調査によって出土した「乙丑年十二月三野国ム下評」の木簡が最古である。「乙丑年」は、天智4年(665)であり、「三野国ム下評」は、後の美濃国武芸郡にあたる。以上のことから、本文字瓦が刻まれた時期は7世紀後半に想定され、年代観は本文字瓦の制作年代とも一致している。
 本文字瓦が出土した影向寺は、寺院に伝わる宝永7年(1710)の「影向寺仮名縁起」によると、天平12年(740)に僧侶の行基によって建立された伝承をもつ古刹である。ところが、これまでの発掘調査の結果、影向寺の創建が7世紀末~8世紀初頭の時期(第1期)であると指摘されている。ただし、塔はやや遅れて8世紀中葉(第2期)に建てられたとされる。この第2期は、天平13年(741)に聖武天皇によって発布された国分寺建立の詔以降の時期にあたる。
 各時期における寺院の特徴としては、

  1. 第1期の白鳳期に建立された古代寺院は、有力氏族の持仏堂程度の堂舎
  2. 第2期は、橘樹郡の鎮護平安を祈願する「郡寺」

であった可能性が高いとされている。
 この度出土した本文字瓦の「荏原評」の銘文によって、寺院建立が7世紀後半であることが明白となった。
 次に「荏原評」の地名の問題である。本文字瓦の出土した影向寺は、武蔵国橘樹郡(大宝令施行以前は「橘樹評」で、現在は宮前区野川420)にあり、本文字瓦の評名「荏原評」とは評の名称が異なっている。影向寺は、通称影向寺台と呼ばれる台地上に立地するが、影向寺の東方約300mに位置する千年伊勢山台北遺跡(現、高津区千年)から橘樹郡家の正倉と推定される遺構が検出されており、この周辺域に橘樹郡家が所在している可能性が推定されている。
 この事実は、本文字瓦が影向寺の所在する橘樹評(後の橘樹郡)ではなく、北東に隣接する荏原評からもたらされた瓦であったことを示している。すでに影向寺境内からは、「都」と箆(へら)書きされた文字瓦が2点採集されており、東京都国分寺市の武蔵国分寺の文字瓦との比較から、西に隣接している都筑郡から橘樹郡にもたらされた第2期の瓦と考えられる。このことから、7世紀後半に、隣接する荏原評から本文字瓦がもたらされた事実が明確になった。
 荏原評から送られた本文字瓦が、橘樹評の影向寺で出土した理由として、次の二つの理由が推定される。第一は、影向寺の創建にあたり、隣接する荏原評に税制(この場合は、おそらく持統3年<689>に施行された飛鳥浄御原令に基づく税制)を含めた何らかの負担が要請されたこと。第二に、影向寺の建立に、隣接する荏原評の知識(善知識)的な要因で瓦が寄進されたことである。この場合、影向寺が知識寺的な性格をもっていたことになるが、その理由を断定する根拠はなく、むしろ7世紀後半では両者を截然と区別することは不可能かもしれない。
 本文字瓦の出土で明らかになったことは、7世紀後半の橘樹評における寺院建立に際し、隣接する荏原評から平瓦が搬入されていた事実である。橘樹評という1行政区画ではなく、広く武蔵国南部の評から協力・支援を得て、影向寺が創建されたのである。つまり影向寺は、橘樹評に居住していた有力氏族が自らの財力だけで建立したというような性格の寺院ではないといえる。したがって影向寺の考察においては、行政的側面や仏教における知識的要素を考慮する必要が生じることになった。こうした重要な事実を示した本文字瓦は、古代南武蔵の歴史を知る上で極めて重要であり、考古学ばかりか、歴史学・宗教史・文化史・建築史上、価値の高い資料である。

参考資料
『神奈川県指定重要文化財影向寺薬師堂保存修理工事報告書[基壇部記録調査編]』
『千葉県印旛郡栄町龍角寺五斗蒔瓦窯跡』

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