木造 増田孝清坐像
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木造 増田孝清坐像 1軀
附 胎内納入銘札1枚
年代
江戸時代〔寛永10年(1633)〕
像高
52.5cm
所有者
能満寺(高津区千年354)
指定
市重要歴史記念物
昭和60年12月24日指定
解説
能満寺境内の不動堂に安置。右手に念珠、左手に蓮華を持つ法体の坐像。寄木造、玉眼嵌入、彩色。頭部は前後に矧いで体部に差しこみ、体部は背面一材、前面二材、両側面二材を寄せ、脚部は横一材。両袖口・両手首から先・右足首から先はそれぞれ別材。持物と彩色は後補。胎内に次のような墨書銘がある。
また、以下のような銘文を記した銘札が胎内に納入されている。
胎内銘には判読できない箇所もあるが、これらの史料から、像が増田内膳正孝清(1569~1650)65歳の時の寿像で、寛永10年(1633)に仏師日向守が造立したこと、弘化3年(1846)と明治18年(1885)に修理されたことなどがわかる(注)。増田氏は武蔵国橘樹郡清沢村の旧家であり、『新編武蔵風土記稿』に次の記事がみえる。
「旧家者百姓忠左衛門 増田を氏とす、松波梶平が知行の農民なり、かれは小田原北條家の家人増田駿河守滿榮が子孫なり、榮滿(ママ)が孫内膳が時より當所に住せり、されどその間の事歴を傳えず」
像は近年に彩色し直されたため、彫技の細部は見定めにくい。しかし、顔立ちはよく特色を写し、総体にそつなくまとめている。作者・造立年代ともに明確な近世初期の寿像として、資料的価値の高い遺例である。なお、作者の日向守は鎌倉に仏所を構えていた三橋姓仏師の一人であり、川崎市影向寺木造十二神将像修理〔寛永11年(1634)〕・横須賀市大宝寺木造三宝本尊像修理〔寛永15年(1638)〕などの事績が確認されている。また、修理にたずさわった松弘と弥三郎正利はいまの東京都大田区内に属する下沼部村に住していた。楠姓の仏師は幕末から明治時代にかけての活躍が目立つ。
(注)これらのほか、像の底部には 【再興同氏三代目忠左衛門滿尚爲[ ]」増田内膳守信忠爲菩提】という墨書銘があり、頭部内には銘札にみえる楠姓仏師による修理と昭和28年におこなわれた修理を伝える銘文が墨書されている。
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