橘樹官衙遺跡群【千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡]】
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年代
奈良・平安時代
指定面積
橘樹郡家跡 4972.77平方メートル
影向寺遺跡 7110.84平方メートル
所有者
国・川崎市 ほか
所在地
高津区千年字伊勢山台423番1ほか33筆
指定
国指定史跡 平成27年3月10日 指定
解説
本遺跡は、伊勢山台と呼ばれる東西にのびる多摩丘陵の標高40~42mの平坦な丘陵上に位置する。平成10年度から16年度に行われた橘樹郡衙推定地確認調査の過程で発見され、その後もガス管埋設工事や開発事業に伴う調査や遺跡の詳細な内容把握のための確認調査などにより調査研究が進められている古代橘樹郡の役所跡である。
これまでに発見された遺構は、掘立柱建物、塀、それに掘立柱建物の一部と考えられる柱穴群などである。これらの遺構は大きく建物方位が真北から西に30度ほど傾くグループ(1期・2期)と、ほぼ真北になるグループ(3期・4期)とがあり、それぞれのグループにおいても建物同士の重なりや規模などから新旧がさらにわかれ、現在では、最も古い1期(7世紀後葉)から最終段階の4期(9世紀後葉)までの、4時期の変遷が想定されている。
7世紀後葉には、3間×3間の平面形式で大規模な総柱式の掘立柱建物(以下、「総柱建物」という)が整然と配置され、橘樹評段階の地方拠点とした地方支配の成立過程において、この時期がひとつの画期となっていたことを明瞭に示している。郡家(評家)成立の当初から、同規格の倉が立ち並ぶ姿は全国的にも稀である。
また、この総柱式建物群の西側には、類似した規模の側柱建物が並列に計画的に配置されている。その性格については確定しがたいが、稲を収納する正倉と並んで、武器あるいは他の税物などの収納庫が建てられていた可能性もあり、8世紀以降の郡家とは違った、評段階の役所がもつ多様な機能を反映している可能性もある。
8世紀前葉には、ほぼ真北方位をとる正倉群が造営されはじめ、周囲を溝で囲んだ正倉院のなかに総柱建物の倉が数棟ずつ直列に並ぶ小群が複数形成され、まさに典型的な郡家正倉院の姿を示している。
こうした郡家正倉の成立は、701(大宝元)年の「大税貯置」の勅、708(和銅元)年の不動倉設置策、714(和銅7)年の租倉の等級制定などを契機とした稲穀貯積の本格化、真北方位をとる官衙施設の普及・整備、あるいは『続日本紀』の734(天平6)年正月18日の勅による雑色官稲と正税との一体化などに対応したものであったと考えられる。
橘樹郡家跡では、各小群の倉の増築順などもある程度復元可能で、早期には7世紀段階の正倉の設計あるいは建物そのものを受け継いだとみられる倉も造られていたことや、8世紀後半にかけて増築が進み拡充していった様子が明らかになっている。 しかし、9世紀には、一部にみられる改築や新造も小型の建物ばかりで、大規模な倉は作られることなく、正倉院は急速に衰退し、9世紀半ばには消滅する。
8世紀後半以降も礎石建ちの倉を伴わないこと、他郡よりも早く郡家正倉院が衰退に向かう様相なども判明しており、正倉院の分散設置や郡家の移転の可能性なども考えられる。
このようなことから、7世紀後葉から10世紀にかけての古代地方官衙の成立から廃絶までの推移を知る上で、全国的にも貴重な遺跡であると評価されている。
なお、橘樹郡家跡のうち、「たちばな古代の丘緑地」は、平成18年度に国から2/3を買い取り、1/3を国有地の無償貸付を受けて供用しています。
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