西福寺古墳
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西福寺古墳 1基
年代
古墳時代後期(高塚古墳)
指定面積
1,600平方メートル
所有者
川崎市
所在地
高津区梶ケ谷3-17
指定
県指定史跡 昭和55年9月16日
解説
西福寺古墳は、昭和39年から施工された梶ケ谷土地区画整理事業の際、関係機関の協力があって公園内に史跡として永久保存されることになった。位置は、南武線武蔵溝ノ口駅の南方、約2.1kmにある。付近の地形は、標高46m前後のやや南北に細長い台地で、古墳はその南側寄りに占地し、墳丘頂部には、標高52.02mを示す三角点が据えられている。そこから南に寄ると、矢上川とその川筋に開けた沖積地が一望できる。
現状保存が決定された後、川崎市文化財調査員(当時)の伊東秀吉氏によって実測調査がなされ、東西径29.3m、南北径27.3m、高さ4.9mの円墳であることが判明した。ただし、墳丘裾部が長年の耕作によって削られているので、築造時の墳丘径は33m前後であろうと推測された。また、墳丘を囲繞する周溝の存在や周溝上の畑地から、円筒埴輪片等が採集されていることから、西福寺古墳は、埴輪が囲繞する高塚古墳で、築造時期は6世紀後半期と推定されたのである。
こうした所見を踏まえ川崎市教育委員会では、昭和45年8月26日、西福寺古墳を市重要史跡に指定した。その後、神奈川県教育委員会においても、この古墳が南武蔵でも埴輪をともなう遺存良好な高塚古墳であることを評価し、県指定史跡に指定された。
川崎市教育委員会では、こうした経緯を受けて昭和57年と昭和58年に、神奈川県からの補助金を得て、古墳と周辺の保存整備事業を実施した。その一環で昭和57年8月には、地上測量と竹石健二氏の指導で、整備上必要な範囲の確認調査が実施された。以下は、その時の成果を要約したものである。
- 築造時の墳丘径と形態は、墳丘裾部の発掘調査によって直径35m、高さ5.5mの正円形に近い円墳であったことが確認できた。
- 周溝は、上端で幅6.0~7.5m、深さ70~80cm(当初は、1m前後か)で、溝底は比較的平坦であった。また、そこには水を満たしていた痕跡がないので、当初から空堀りであったと思われる。
- 周溝内の堆積土は4層に分けられるが、埴輪の破片は真ん中の第2・3層から発見されている。つまり、墳丘裾部に樹立していた埴輪は、周溝内に自然堆積した第4層の堆積直後から徐々に壊れ落ちていったものと推測できる。
- 出土した埴輪は、円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪の3種類で、数量的には円筒埴輪が圧倒的に多い。円筒埴輪は、断面が「コ」の字状にしっかり突出したタガを巻く。朝顔形埴輪・形象埴輪の出土は少量であったが、水鳥の頭部が1点含まれ注目された。
- 内部主体は未発掘であるが、墳丘部の南側に若干落ち込みが認められた。おそらくその部分に、横穴式石室が崩壊しているものと推測できる。
この調査成果から、現在における古墳の築造時期についての推測であるが、西福寺古墳から発掘されている円筒埴輪の特徴は、最近の研究では5世紀後葉から6世紀初頭頃と考えられること、前述要約5.で横穴式石室と推測された落ち込みは倒木等によるものである可能性が高く、竪穴系の主体部である可能性もあることから、埴輪の年代を採用し、5世紀後葉から6世紀初頭としておきたい。
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