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円筒分水

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円筒分水

円筒分水

住所

高津区久地1-34-25

交通案内

JR「久地駅」から川崎市バス溝06系統「第三京浜入口」行き、東急バス向02系統「二子玉川」行き、「新平瀬橋」下車、徒歩約2分

地図

解説

 慶長2(1597)年、江戸幕府代官の小泉次太夫(こいずみじだゆう)によって稲毛(いなげ)・川崎二ヶ領(にかりょう)用水の測量・工事が開始されました。現在の多摩区中野島地域から多摩川の水を取り入れる用水工事は、約14年の歳月を経て完成しました。その後、中野島の下流、宿河原にも用水取水口を新設し、さらに用水による灌漑(かんがい)面積を増加させました。

 中野島・宿河原取水口から引水した二ヶ領用水は、久地(くじ)村で合流し、同村に設けられた分量樋(ぶんりょうひ)によって4つの堀に分けられました。この分量樋は、用水の流れをそれぞれの堀の流域の灌漑面積に比例した木製の樋(水門)によって分ける施設です。

 こうして二ヶ領用水は、流域の広大な水田を潤し、近世川崎地域の生産力を高めたのです。しかし、一方では水騒動という用水をめぐる争いも起きています。日照りなどのさい、下流の村々では自らの地域の用水量を増やすため、分量樋の他の地域への流れをふさぎました。当然ふさがれた地域では、これに対し訴訟を行ったり、時には実力行使に及ぶこともありました。このような水騒動は、その後もしばしば発生しました。

 明治維新後も、二ヶ領用水は地域の農業用水として活躍し、多くの水田を潤してきました。そして近代技術が発展すると、それまで水騒動の拠点であった久地の分量樋にかわって、昭和16(1941)年にコンクリート製の円筒分水(えんとうぶんすい)が造られました。

 この円筒分水は、中央の円筒から用水を湧き上げ、その外側にある直径16mの円筒の円周から、それぞれの灌漑面積に合わせた比率によって4本の水路に流す仕組みになっています。用水の水の増減に関わらず、一定の比率で分水するこの円筒分水のシステムは、当時としては最も理想的かつ正確な自然分水方式の一つであり、その後、近年に至るまで全国にこのシステムが採用されていきました。二ヶ領用水久地円筒分水は、その初期の事例として、平成10(1998)年、川崎市で初めての国登録有形文化財(建造物)に登録されました。工業都市として発展した川崎で、二ヶ領用水は本来の農業用水としての役割をほぼ終えましたが、現在では市民の憩いの散歩道として整備され、環境用水としての新しい姿を見せています。

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