板碑(妙法寺)
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板碑 1基
年代
鎌倉時代〔建長7年(1255)〕
法量
高さ 64cm
幅 40cm
厚さ 5.5cm
所有者
妙法寺(高津区久末375)
指定
市重要歴史記念物 昭和63年11月29日指定
解説
埼玉県秩父地方産の縁泥片岩で造られた、鎌倉時代の板碑のひとつ。板碑とは中世に作られた石塔の一種で、全国に分布するが、とりわけ埼玉を中心とする関東地方には多く、4万基を数えるとされる。川崎市内ではこれまでに約900基が確認されているが、この板碑はその中でも最古のもので、神奈川県下でも2番目に古い板碑である。
この板碑は昭和51年春、妙法寺山門前の古井戸の工事中に地下20~30cmのところから掘り出されたものである。碑面 の摩滅は少ないが、蓮座より上部の仏をあらわす梵字(これを種子という)や銘文の下部が失われている。したがってもとの大きさはおそらく、1.5mを越す大型の板碑だったろう。
銘は次のようである。
初秋は旧暦の7月にあたる。つまり主君の追善のために、おそらく盂蘭盆の供養として、この板碑を造立した、というものである。
ところが、『新編武蔵風土記稿』の都筑郡山田村三宝寺の条にこの板碑に関するものと考えられる記事がある。すなわち、平治の乱で戦死した源義朝の臣鎌田兵衛正清の百回忌にあたって、正清の追善のために石碑が建立され、それが三宝寺の客殿に納められているが、その銘文は「建長7年乙卯初秋日、寺主良範、右為主君聖霊出離往生極楽、造立如件」というものであった、というのである。
この記事は、伝承の部分は『風土記稿』編者も「疑ふべし」といっているように全幅の信をおくことはできないが、ここに引用されている銘文は興味深い。この記事の銘とこの板碑とがよく似ていることは言うまでもなく、またこの三宝寺といういま廃寺となっている寺と板碑の出土した妙法寺とが僅か1キロほどしか離れていないことをあわせ考えれば、この三宝寺の「石碑」が、三宝寺が廃寺となったときに妙法寺に移ったのではないかと考えることは強ち無理とはいえない。その推定が正しいとすれば、この板碑の銘の欠損した部分をこの記事によって次のように補うことができよう。
すなわち、問題はこの銘にある主君聖霊で、同様に主君銘をもつ板碑は千葉県や埼玉 県にも見られ、これらは一応領主層に属する故人のことと解することができる。この板碑の場合も、そこから鎌田正清にまつわる伝説が生まれたのであろうが、造立者の良範が銘のように寺主(寺院の三綱の一)を称したとすると、寺院内の主従関係がこの主君という銘に反映されている可能性も無しとしない。造立者である良範についての一層の解明が必要であろう。
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