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木造 薬師如来両脇侍像(影向寺)

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2004年12月8日

木造 薬師如来両脇侍像

木造 薬師如来両脇侍像(影向寺蔵)

木造 薬師如来両脇侍像 3軀

年代

平安時代

像高

(中尊)139.0cm
(日光)171.0cm
(月光)171.0cm

所有者

影向寺(宮前区野川本町3-4-4)

指定

重要文化財 明治33年4月7日指定

解説

 当寺本尊で、現在収蔵庫に安置される。
 まず、中尊から述べる。中尊像は、左手を脚上に置いて薬壺を載せ、右手を屈臂し施無畏印を結んで結跏趺坐する通形の薬師坐像である。構造は、右臂までを含んで頭・体幹部をケヤキの一材より彫出し、後頭部を割矧いで内刳りを施し、体部には首下から地付きまで背刳りを行って背板(中央で左右二材矧ぎ)を当てる。左側には肩から地付きにいたる材を矧ぎ、両脚部は別材矧ぎして、裏を刳り上げる。さらに、両腰脇三角材、右前膊、両手首より先、裳先、薬壺を別材矧ぎとする。左袖口から膝にかけての当て木と左手首より先、裳先、薬壺は後補で、そのほか各所に小補修、虫損、朽損がみられる。
 本像は像高約140cmという大きさもさることながら、安定感ある堂々とした大作である。幅広でがっちりした肩、太い腕、大きな脚部などの肉付けもしっかりしている。また、奥行きがかなり厚く、ことに腰のあたりはそれが顕著である。こういったボリューム感は、大磯・王福寺薬師如来坐像など10世紀の作例にはとても及ばないが、平安時代中期につながる古様な要素であろう。また、本像の衣文、特に脚部のそれは10世紀後半頃によくみられる翻波式衣文が退化した形-たとえば京都六波羅蜜寺薬師如来坐像や正暦元年(990)作奈良法隆寺講堂薬師三尊像-をさらに浅く形式化したものと考えられる。本像はこのように古様の名残を留める一方、細く伏し目がちの眼や柔らかな肉取りの頬をもつ面部は穏やかな表情をたたえ、和様の趣がある。関東地方の平安彫刻は複雑な様相があるので断定は難しいが以上を勘案して推定すると、本像の制作年代は様式的には11世紀後半に置くことが妥当かと思われる。
 日光・月光菩薩立像は、日光像は左手、月光像は右手を垂下し、もう一方の手を屈臂して掌を前に向けて立て、第1・3指を捻ずる。両像とも頭・体幹部を通してサクラの一材から彫出し、長方形に背刳りを施して背板を当てる。それぞれ屈臂する手の臂から先と両足先を別材とする。両足先は後補である。
 両像は比較すると、日光像に比べて月光像の方が全体に太造りであり、表情も異なる。また、髻の大きさ、天冠台の彫り、裙の折り返し部の衣文など、細部の意匠もそれぞれ異なり、当初からの一具像ではなかった可能性もある。しかし、法量、材質、構造、髻や天冠台の形式、条帛や天衣の懸け方、など基本的な部分は共通している。平安時代には両脇侍像の間でかなり個性を異にする場合も見られ、両像についてもことさらに別作とする必要はないのかもしれない。
 また、中尊像に比べて両脇侍像は肉付けや衣文もあっさりとし、ボリュームもないことから、両脇侍像の方が少し遅れて制作されたとする考え方もある。しかし、日光像の面相は中尊像とよく似ており、両像が別作とは見えない。従って、仮に両脇侍像が一具であるとすれば、三尊一具の可能性も生じてこよう。いずれにしても、市内はもとより東国の平安彫刻を考える上でも見逃せない重要な作例である。
 なお影向寺は『影向寺縁起』によれば、天平13年(741)に創建され、天安2年(858)慈覚大師が再興したと伝える天台宗の古刹である。発掘調査の結果によれば、境内からは7世紀末から8世紀中葉の瓦が出土し、縁起の伝えと矛盾しない頃の造建が想定できるという。

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