木造 聖徳太子立像
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木造聖徳太子立像 1軀
年代
鎌倉時代末~南北朝時代
像高
91.0cm
所有者
宮前区野川本町3-4-4
指定
市重要歴史記念物
昭和43(1968)年2月10日指定
解説
現在太子堂内に祀られる像高ほぼ3尺の立像である。
髪を美豆良に結い、袍の上に袈裟を着け、沓を履き、両手で柄香炉を捧げ持つという形であらわされる本像は、数種類ある聖徳太子像のうち、最もポピュラーな形式の一つである孝養太子像と呼ばれるスタイルである。孝養太子像は、太子が16歳の時に父である用明天皇の病気平癒を祈った姿をかたどったものといわれている。
構造は寄木造で、玉眼を嵌入する。頭部は前後三材矧ぎとし、前寄り二材より首枘を造って体幹部に挿し込む。体幹部は前後二材矧ぎとし、内刳りを施し、像内中央胸付近では束を刳り残して前後二材を結着する。体幹部材の左右に前面では肩・袖を造る材を、後面では肩から地付きに至る材をそれぞれ一材矧ぐ。体幹部は袍・袈裟部と裙部との境で割り矧ぐ。裙裾では体幹部前面材の左右に各一材矧ぐ。両手首より先、両袖先、美豆良、両足先、両足枘などを別材とする。
表面は後補の黒漆塗りとし、持物、台座も後補である。
胎内に銘札があり、寛文2(1662)年に修理されたことがわかる。
袍・袈裟部の下縁で裙部を割り矧ぐという所作は仁治3(1242)年快成作福岡万行寺阿弥陀如来立像をはじめ、13~14世紀の作例に時折みられるが、本像にこのような構造がみられることは注意される。
本像は全体のプロポーションがよく整い、姿勢も余分な力を抜いて自然に、しかもある種颯爽としたところを感じさせる。肉付けも過不足なく、適度な奥行きと量感を持っている。
衣文は所々やや単調になったり、表面的な処理に終わった箇所もみられるが、未だ形式化していない。面部はやや吊り気味の目と眉、張りのある頬、引き締まった口元など、若々しい力が現れている。
このような本像の作風を、寛元5年(1247)慶禅作の埼玉天洲寺像やそれと作風が近い文永11(1274)年頃造立の奈良金峯山寺像などに比べると、造形力ではさすがに及ばないが、元応2(1320)年湛幸作の京都仏光寺像と比べても面貌、量感、彫り口など遜色はない。ただし、先にも述べたように、体部の衣文表現にはやや硬さもみられるので、制作は鎌倉時代末期から南北朝時代初期、すなわち14世紀前半と推定しておくこととする。
県内の孝養太子像のうち、中世の優作としてはまず横浜永勝寺像が挙げられるが、本像の表現は永勝寺像と比べても見劣りするものではなく、孝養太子像の優作の一つとしてよいであろう。
『新編武蔵風土記稿』の巻之六十二野川村条の観音堂の項に「ココニ聖徳太子ノ像アリ長三尺許太子十六歳ノ御時ノ貌ヲ冩セシナリト云佛工運慶カ作ナリ此像モト影向寺ニモニナリシカ何ノ頃ヨリカココニ安セリ」と記されるのが本像と思われ、かつては観音堂に祀られていたことがわかる。
胎内木札墨書銘
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