木造十二神将立像(影向寺)
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子神将
丑神将
寅神将
卯神将
辰神将
巳神将
午神将
未神将
申神将
酉神将
戌神将
亥神将
木造 十二神将立像 12軀
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年代
南北朝時代
像高
66.4~78.5cm
所有者
宮前区野川本町3-4-4
指定
市重要歴史記念物
昭和43(1968)年2月10日指定
解説
現在収蔵庫内の本尊薬師三尊像の両脇に安置される。十二神将はいうまでもなく薬師如来の脊属とされ、宮毘羅大将から毘羯羅大将まで各々名称が定められている。元来十二神将は十二支とは無関係であったが、平安時代中頃から両者は関係付けられ始め、中世には一般的になった。しかし、十二支をいずれの神将に当てるかについては必ずしも一定していない。本像は後世配置が混乱したと思われ、さらに本体と台座が本来の組合せではないようであり、ここでは名称は寺伝に従うこととする。
各像ともヒノキ材製で、構造は各々形状によって異なるところもあるが、頭・体幹部を一材より彫出し、前後に割り矧いで内刳りを施して割り首し、さらに面部も割り矧ぐことを基本にしている。これに両腕や裾の外側、足の一部など、はみ出す部分を別材で寄せる。表面は昭和46(1971)年の『修理報告書』によれば、当初は胡粉下地の彩色であったと思われる。
本像には胎内や台座裏などに墨書銘や納入文書があり、応永22(1415)年、享禄4(1531)年、寛永11(1634)年、元禄2(1689)年、嘉永3(1850)年、に修理が行われたことがわかる(銘の詳細は後掲)。
形状の上から本像の類例を県内に求めると、鎌倉辻薬師堂像が最も近い。後世に多くの模像が造られた鎌倉覚園寺像は、辻薬師堂像と近く、それを模したと推定されているが、本像の方が辻薬師堂像により忠実である。県下の十二神将像の多くが図像的には辻薬師堂像に遡ると考えられているだけに、後述のように覚園寺像より制作年代の上る本像の存在は系統を考える上で非常に興味深い。
本像は各像の法量や作風に統一がとれており、一具の群像であることは間違いなかろう。各像は頭・体のプロポーションもまずまず整い、ポーズや動きを強調するあまりバランスの破綻をきたしてしまったような像はみられない。総体に細身で、肉付けは特に量感を強調するわけではなく控え目であるが、正面観、側面観、背面観のいずれも不足を感じさせることはない。総じてまとまりのとれた上手の群像といえる。しかし、各像ともやや足が短いきらいがあり、体部各所の肉付けにも抑揚が足りない。
また、表情には少し俗っぽいところがあり、焔髪などの彫りにも質感が乏しい。これらの作風から制作年代を推定すると、概そ南北朝時代頃の作と考えられる。鎌倉時代の作とされる辻薬師堂像や応永8~18(1401~1411)年作の覚園寺像と比べると、辻薬師堂像は見事なプロポーション、力強い自然な動き、たくましい肉付けや表情などに鎌倉時代の作風をよく示し、本像を遡ることは間違いない。一方、覚園寺像は動きにバランスを失ったところがあり、袖や袴の彫り、表情などに誇張が目立ち、本像の落ち着いた表現よりは下ると考えられる。またこれは、応永22(1415)年に修理が行われたこととも矛盾せず、本像の制作を南北朝時代としても差し支えないものと思われ、中世のまとまりある十二神将像の一例として県内でも評価されよう。
なお、室町時代の深大寺の僧長弁の『私案抄』には、応永13(1406)年の当寺再興の勧進状が記載されるが、本像の応永22年の修理と関連があるかもしれない。
影向寺十二神将銘文
子神将
丑神将
寅神将
卯神将
辰神将
巳神将
午神将
未神将
申神将
酉神将
戌神将
亥神将
(以上の銘文は、大略『影向寺文化財総合調査報告書』に従った。ただし、子神将像胎内納入文書は『修理報告書』、丑神将像頭部内墨書銘については昭和45年調査時の調書に拠った。)
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