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馬絹古墳

  • 公開日:
  • 更新日:

馬絹古墳 1基

年代

古墳時代後期(高塚古墳)

指定面積

1,044平方メートル

所有者

川崎市

所在地

宮前区馬絹994-10

指定

県指定史跡 昭和46年12月21日

解説

 馬絹古墳は、田園都市線梶ケ谷駅の南方約1.2kmに位置している。地形的には、矢上川に沿って開けた沖積地を望む台地の南縁辺に位置し、付近の標高は43m前後をはかる。
 古墳は、昭和46年に宅地造成工事に先行して樋口清之・金子皓彦両氏の指導のもとで発掘調査され、全長9.3mの大形の横穴式石室を内部主体とする円墳であることが判明した。川崎市教育委員会ではこれを現状保存するため、神奈川県からの補助金を得て古墳部分を公有地化、史跡公園として整備した。また、石室内部は亀裂が生じていたので、これをH鋼等で補強した。
 神奈川県教育委員会では、馬絹古墳が南武蔵における終末期古墳として、その教育的・学術的な価値が高いことを認め、県指定史跡に指定された。
 そして昭和52年、川崎市教育委員会では、考古学・構造力学・保存科学の3分野からなる保存活用計画調査を実施し、あわせてH鋼等で石室内部の再補強をした。
 平成2年からは、昭和52年の調査結果を受け、再度5カ年計画で、考古学・構造力学・保存科学・物理探査・公園景観等の分野からなる保存整備活用事業が実施された。その一環で平成2年には、竹石健二氏の指導で、墳丘部分を含む確認調査が実施された。昭和46年の成果と照合すると、馬絹古墳の特徴は次のように要約することができる。

  1. 墳丘の形態は、直径約33mの円墳で、高さは北側で約3m、南側では4.5mをはかる。墳丘の北側斜面には、拳大の河原石で1重、東・南・西側斜面には2重の葺石が敷かれていた。周溝は、幅約3.5m前後、深さ1.5m前後で、南東側の台地斜面部で途切れる。
  2. 墳丘の築造方法は、北西側では1段、東北・西南側では2段、南東側では3段築成であることが推測できた。墳丘は、ローム土と黒色土の互層を基本とする極めて整美かつ堅固な版築工法で築成されている。特に裾部から中央部にむけて比較的厚めに積み上げ、これと並行的に石室に構築が行われる。この後、石室側に向かって版築層の傾斜を斜めにし、極めて薄く積み上げていく。石室周辺部の版築層中には、石室の用材として使用した泥岩の残滓が混入していた。石室の支持基盤は、地山のローム土を半地下式に掘り込んだものである。
     なお昭和62年、南側隣接地の発掘調査が金子皓彦氏の指導で実施され、石室の前面にあたる斜面にも墳丘と同様の版築層が広範囲に認められた。これを墳丘の一部と認めるかどうかは慎重な検討を必要としている。
  3. 古墳の内部主体である横穴式石室は両袖式で、奥室・中室・前室からなる複室構造である。特に奥室正面の鏡石は大形の見事なものである。石室内部の切石と切石の間には、比較的広く白色粘土を塗布している。また玄室左側壁に円文、鏡石に図柄不明の文様が描かれている。一種の装飾的効果を意図したものであろう。材料が漆喰でない点も興味深い。
     石室を築く工法としては、泥石切石による切組積で、天井部に向けて徐々に狭めていく持ち送り技法を駆使している。石室の床面には、全面にわたって小礫が敷かれていた。
  4. 石室内は、昭和46年の発掘調査時点ですでに盗掘を受けていたので、副葬遺物等はわからない。しかし、木棺に打ちつけたと思われる鉄釘が、奥室部を中心に79点も発見されている。この数量と発見位置から推測して、木棺は複数個であったものと思われる。

 馬絹古墳は、泥岩切石による大形の横穴式石室を内部主体とする円墳であることは、これまでの調査で解明されたが、肝心の石室内がすでに盗掘を受け副葬遺物が失われていたため、築造時期の比定根拠に欠けていた。ただ石室主体が、切石による整美な横穴式石室であるので、各地の事例に徴したとき、比較的終末期の築造であることが容易に推測できる。加えて、もっとも重要な奥室の規模が、縦・横・高さとも約3mである点から、1尺が29.6cmの唐尺で設計されたものであろう。
 唐尺が我が国で普及してきた時期には諸説があるが、一般的には7世紀中葉前後と考えられているので、馬絹古墳の築造時期も、7世紀後半代と推測できよう。

馬絹古墳横穴式石室実測図

馬絹古墳横穴式石室実測図