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影向寺薬師堂

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影向寺薬師堂 1棟
附(つけたり)
厨子 1基
銅板屋根替銘札 2枚
薬師堂前石灯籠 1基
塔心礎(通称影向石) 1個
境内出土古瓦 15枚

建築年代

江戸時代[元禄7年(1694)]

規模

桁行44尺 梁行39.1尺

構造形式

桁行5間 梁行5間 寄棟造・茅葺形銅板葺

正面1間向拝付 側丸柱 斗栱出組(拳鼻付)・詰組

所有者

影向寺(宮前区野川本町3-4-4)

指定

県指定重要文化財 昭和52年8月19日指定

解説

 多摩丘陵の東南端、野川の台地にある影向寺は、7世紀末から8世紀初め頃に創立された古代寺院にはじまる。寺院創立以前、当地には支配階層の邸宅と思われる大形の堀立柱建物が営まれ、また創立期の仏堂は、中央文化の薫りがする奈良・山田寺式の軒丸瓦と重孤文の軒平瓦で屋根を飾っていた。そして、8世紀中頃には、金堂と塔を備えた橘樹郡を代表する寺院となり、これを郡寺にあてる説が有力である。旧金堂址は、薬師堂の建つ位置で、そこに堀込基壇が遺存し、奈良時代の柱座付礎石(柱座径52cm)3個が転用されている。また薬師堂東南にある影向石は奈良時代の塔心礎(柱座刳込、枘穴・舎利孔付)であり、その位置に塔の堀込基壇が検出された。
 一方、影向寺(旧称栄興寺)の創立については、応永13年(1406)の「武蔵国栄興寺再興勧進状」に、文徳天皇の時、慈覚大師円仁の建立といい、また宝永7年(1710)の「影向寺仮名縁起」に、聖武天皇の御願、行基菩薩の開基と、天安年中(857~9)の慈覚大師円仁の再興を伝える。発掘調査によると、薬師堂西南の土塁西側より9世紀中葉の竪穴式住居址が検出され、これは寺の造営にともなう仮設的な遺構と考えられている。円仁との関係は検討を要するが、9世紀中頃に寺が再興され、その時現在の天台宗になったことが想定される。
 中世の影向寺については、応永年間(1394~1428)の伽藍再興と、室町後期の薬師堂再建が知られる。現在の薬師堂に転用された前身堂の古材によると、室町後期の薬師堂は五間堂で、現在と同様、軸部に禅宗様の技法を摂取していた。なお、中世の薬師堂は周囲に土塁を築き、聖域を画していた。この土塁を取り除き、参詣者の出入を自由にした、今の様な開放的な景観は近世になって出現したのであろう。
 近世に入り、万治年中(1658~61)の影向寺回禄が、『新編武蔵風土記稿』に伝えられる。この回禄は、薬師堂東方の庫裡の一郭にとどまり、薬師堂に及ばなかったと考えられる。寛文元年(1661)に寄進された石灯籠2基は旧薬師堂の前に奉納されたとみてよい。現在の薬師堂は17世紀末頃の様式をもち、銅板銘札により造営の経過が知られる。すなわち、元禄6年(1693)4月より翌年2月にかけて薬師堂が建立され、引き続き2月より7月にかけて須弥壇と宮殿(厨子)が造立された。造営の棟梁は清沢村(川崎市高津区千年)の木嶋長右衛門直政で、一門の大工のほか、江戸の大工も参加した。造営の本願は別当俊栄で、光祐があとを継ぎ、後援者に地頭と深大寺僧及び地元と近在の村の名主の名が記されている。薬師堂は、昭和61年から63年にかけて修理が行われ、当初の形式に復元整備された。
 薬師堂は、方五間の規模で、前面と両側面に縁をめぐらし、正面に一間向拝を付ける。屋根は、もと寄棟造・茅葺で、向拝を銅瓦棒葺とする。平面は前面二間通りを外陣、その後方の方三間を内陣、両脇を脇陣とする密教本堂形式である。柱間寸法は和様の枝割制により、特に桁行中央間は広く13尺(16枝)に定め、中世の薬師堂より規模を拡張している。柱は径1尺の太い丸柱(上部粽付)を用い、軸部・斗栱に禅宗様の技法を大きく摂取している。側廻りは、背面を除き内法長押をまわすが(正面中央間のみ長押一本高く入れる)、軸部を足固貫、内法貫、頭貫(木鼻付)、台輪(木鼻付)で固め、出組斗栱を詰組に配す。軒は二軒半繁垂木である。柱間装置は、外陣が正面中央間に双折桟唐戸をたてるほか、蔀戸を多用して開放的に扱うのに対して、内陣と脇陣は片引戸と連子窓を一部に設けるほか、板壁として、閉鎖的に構成される。向拝は角柱を頭貫虹梁(獏鼻付)と海老虹梁(獅子鼻付)で繋ぎ、連三斗を組み、中備に蟇股を置く。内部は、柱高、軸部・斗栱形式とも側廻りと同じである。内陣は、外陣及び脇陣境に中敷居を入れ(高さ・1.67尺)、両脇陣背面柱間に引違板戸を建てるほか、各柱間とも格子戸を篏殺しにして、厳重に結界されていた。両脇陣と外陣境は袖壁付の引込格子戸である。
 このように内陣を中敷居と格子戸により結界するのは中世以来の密教本堂の特色であり、禅宗様技法の摂取とともに、前身堂の形式を継承したものであろう。天井は、各陣とも同じ高さに張るが、室に応じて意匠を変えている。外陣は鏡天井で(中央に龍墨絵、両脇に天女彩色絵を画く)、梁行に頭貫と下端をそろえて虹梁を渡して角束を立て(中央両虹梁は笈形付)、斗により梁行の天井桁を受けている。特に、両端の虹梁を曲梁とするのは異例の技法である。また、内陣は一面に格天井(格縁漆塗)を張り、平明で広々とした室内を造っている。内陣と外陣のこうした構成は近世的な特徴を示している。
 内陣背面の壁に接して、間口の大きい須弥壇を置き、その上に間口三間、奥行二間、入母屋造・妻入り、軒唐破風付の宮殿を安置する。宮殿は軸部や組物(二重尾垂木付二手先斗栱・詰組)、軒の扇垂木に禅宗様を採り入れ、薬師堂と同時期の造立になる。宮殿は彩色仕上げで、壁面を彩画と透彫彫刻で飾っている。なお、薬師堂内外の木部にも弁柄塗の痕跡が残っている。
 薬師堂は、内陣の結界を厳重にした平面や軸組・斗栱の形式に中世以来の伝統を継承する一方、内陣や外陣内部に近世的な空間を造り出している。中世の伝統を継承した、県下旧武蔵南部における江戸中期の密教本堂の代表作の一つである。

薬師堂再建銅板銘札(縦23cm 横47cm 厚さ0.15cm)

銘文・表

薬師堂再建銅板銘札 銘文・表 翻刻文
薬師堂再建銅板銘札 銘文・表 翻刻文その2

銘文・裏

薬師堂再建銅板銘札 銘文・裏 翻刻文
薬師堂再建銅板銘札 銘文・裏 翻刻文その2

影向寺薬師堂前石灯籠刻銘

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影向寺薬師堂梁間断面図

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影向寺薬師堂平面図

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