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橘樹官衙遺跡群【影向寺遺跡】

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2018年7月20日

影向寺遺跡 金堂基壇下の瓦敷層

年代

奈良・平安時代

指定面積

所有者

影向寺、個人

所在地

宮前区野川419番地ほか

指定

国指定史跡 平成27年3月10日指定

解説

 影向寺遺跡は、橘樹官衙遺跡群を構成する遺跡の一つで、古代橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡の西隣に造営された古代寺院の遺跡である。

 古代影向寺の主要伽藍と考えられる建物については、現薬師堂基壇下で検出した基壇建物Aとその南東側約50m付近にある基壇建物Bの2棟が現在までに確認されている。いずれも版築工法を用いた堀込地業を有する。影向寺遺跡における古瓦の出土分布は、これらの基壇建物の周辺に集中しており、このことから基壇建物AとBだけが総瓦葺の建物であった可能性が高い。

 このうち、基壇規模が12m四方と推定される基壇建物Bは塔とみてよいので、基壇建物Aは金堂である可能性が高い。

 推定金堂である基壇建物Aは、現薬師堂基壇東端部のトレンチ調査で出土した軒丸瓦から、基壇建物B(塔)の建設より下る8世紀中葉以降に造営されたと考えられる。しかし、基壇建物A(推定金堂)の掘込地業の調査成果を整理すると、瓦を含んでいたとされる土層は、現薬師堂基壇東辺部のトレンチに限られていること、東南部では掘込地業・基壇が南側に1mほど突出していることから、1つの掘込事業とされてきた基壇建物A(推定金堂)の堀込地業には新旧の重複があり、創建期地業の東寄りに位置をずらして瓦を含む新たな堀込地業が施工された可能性も考えられる。

 また、基壇建物B(塔)は、堀込地業中から影向寺創建期の瓦が出土していることから、創建時の金堂より遅れて8世紀前葉に造営されたと考えられる。

 影向寺では、これらの主要建物以外にも、何棟かの掘立柱建物を確認しており、寺院に関係した施設であったと考えられるが、門、僧坊、食堂等の施設との関係については明らかではなく、寺域を区画する施設についても未確認である。

 古代の影向寺の変遷は、影向寺下層建物群の時期を含めると7期の変遷をたどる。

 1期は影向寺の創建に先行する時期で、影向寺下層建物群が存在する時期である。この掘立柱建物群は、建物主軸方位が真北から約40°西に傾いている。これらの柱掘方埋土からは、瓦が全く出土していないことや、全国的に郡家など官衙関連建物の主軸方位が斜方位から真北またはそれに近い方位へと移行していく傾向がみられることを考慮すると、これらの建物の初現時期は影向寺が創建された7世紀後葉より遡り、集落の竪穴建物群が展開していた7世紀中葉より下る時期であったと推定される。

 2期は影向寺創建期にあたる。推定金堂に山田寺系の素弁八葉蓮華文軒丸瓦が葺かれた時期で、これらの瓦の制作年代は同系統の瓦との比較から、7世紀後葉~8世紀初頭と推定されている。瓦には「无射志国荏原評銘文字瓦(むざしのくにえばらごおりめいもじがわら)」と刻まれた文字瓦が見られ、これが創建期にかかわるとすれば、国評標記が一般化する683(天武12)年から700(文武4)年までの間に瓦葺建物造営が始まった可能性が高い。7世紀後葉から8世紀初頭の竪穴建物が廃絶後あまり時間をおかずに人為的に埋め戻されていることから、この時期には寺院地の整地工事なども進められていたようである。

 3期は2期に創建された金堂の南東側に塔が造営された時期と考えられ、金堂や塔の周辺には同時期と想定される数棟の掘立柱建物を検出している。

 4期は武蔵国分寺創建前後の8世紀中葉ころと推定される。この時期には金堂が再建されたとみられ、瓦を含む掘込地業を伴う基壇建物A(新段階)がこの再建金堂に比定される。

 南武蔵地域においては、この時期に堂塔が建立されている寺院の確かな例は影向寺以外には認められないことから、影向寺はこの地域を代表する中核的な寺院であった言える。

 5期は、国衙系瓦屋である南多摩窯跡群から供給された平瓦を用いた時期で、8世紀後葉ごろである。この時期の瓦の出土量は非常に少なく、新たに造営された建物も確認されていないことから、補修に用いられたと推定できる。

 武蔵国府が管理する国衙系瓦屋で制作された瓦が供給されていたことは、影向寺が716(霊亀2)年に出された寺院併合令による全国的な地方寺院の統廃合を乗り切って伽藍整備を継続的に進め、国分寺創建後は国による国分寺を中心とした新たな仏教統制に組み込まれたことを意味していると考えられる。

 6期は9世紀前葉から中葉にかけての域であるが、今のところこの時期の遺構や瓦などは確認されており、詳細は不明である。

 7期は5期同様、国衙系瓦屋の南多摩窯跡群から供給された平瓦が用いられた時期で、年代は9世紀後葉から10世紀初頭ころ、出土の量から補修に用いられたと想定される。6期には見られなかった国衙系瓦が再度みられるようになる理由として考えられるのは、878(天慶2)年9月29日の「相模・武蔵地震」により被災した伽藍建物の復旧のためである。

 影向寺もかなりの被害を受けた可能性が高いと考えられ、影向寺境内からは7期と推定される竪穴建物が数棟発見されており、その中の1棟からヤリガンナが出土している。通常は寺院境内に建てられることがない竪穴建物が存在していることなどから。この時期に影向寺で木材を加工するような作業が行われていた可能性が高い。それが、地震に伴う修復作業であるとするならば、その時期は878年以降となり、補修瓦の制作時期とも一致する。

 このように影向寺遺跡は7世紀後葉に創建された古代影向寺の建物を検出しており、当時の影向寺の建物に葺かれた瓦の分析を通して、影向寺の伽藍やその変遷が明らかになってきており、その歴史的価値は非常に高い。

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