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後北条氏の虎の印判状庚寅三月十六日付

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2016年10月4日

後北条氏の虎の印判状庚寅三月十六日付

後北条氏の虎の印判状 1通

年代

天正18年(1590)

法量

縦31.6cm 横46.3cm

所有者

日枝神社(中原区上丸子山王町1-1455)

指定

市重要歴史記念物 昭和50年12月26日指定

解説

 この印判状は、北条氏直が、上丸子郷と沼目郷(沼部郷)の境界訴訟を判決した文書である。この場合も、今阿弥が奉者として氏直の命をうけ、印判状発行の担当者となっている。この判決が出された天正18年3月16日というと、豊臣秀吉はすでに小田原城攻めのため京都を出発しており、また、十数日後には豊臣軍が同城を包囲している。したがって、この文書は、後北条氏最終段階の極めて緊張していた時期に作成され、発給されたものといえる。
 この文書のように、料紙を2つに折らずに用いる形式を、竪紙といっている。
 さて、境界争いの原因は、天正17年9月以前に起きた多摩川の洪水がもたらしたものであった。そのときの洪水によって、上丸子郷のうちが川成、すなわちこの場合は、多摩川の川筋が動き、河岸の田畠にも変動が生じたため、上丸子郷と世田ヶ谷領沼部郷との間で境界争いとなり、後北条氏に訴え出ているわけである。「問答」とあるのが、これを示している。
 そこで、氏直は天正17年の9月、興津加賀守・中田加賀守及び安藤良整の代官である福田某の3人に、検使として実地検分をさせたのである。3人の検使について言えば、興津は江戸衆で江戸城から、中田は小机衆で小机城から、そして安藤の手下の福田は小田原城から、それぞれ選ばれたものとみられる。
 それは、沼部郷は江戸城の領域であり、上丸子郷は小机城の領域であり、さらに上丸子郷は、その多くが直轄領であったので、こうした検使構成で現地調査が行われたものと推察できる。
 調査に当たった3人の検使は、係争の土地は上丸子郷に間違いないと報告した。そのため、6ケ月後の天正18年3月16日になって、氏直は検使の報告に基づいて、中村五郎兵衛と上丸子百姓中に対し、川成となった田畠の耕作者を決めて、ありのままの年貢を納入するよう命じたのである。
 6行目の「作識」は「作職」の当て字で、作職を申し付けるとは、耕作権を認定すると同時に、その耕作と年貢等納入の義務を負わせる意味が含まれている。なお、中村五郎兵衛は、丁亥(天正15年)8月18日付け虎の印判状に記す「両名主」のうちの1人とみられ、後北条氏から上丸子郷直轄領の管理をも任され、その年貢など納入の責任者である。
 その文書は、16世紀末期における多摩川流路の大変動をうかがわせる一史料である。また、後北条氏末期の臨戦体制時における、民事裁判の手続きを示している史料でもある。その意味で貴重な史料といえよう。

原文

後北条氏の虎の印判状 原文

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