市ノ坪の富士講関係資料〔木造食行身禄坐像(もくぞうじきぎょうみろくざぞう)及び造像記(ぞうぞうき)ほか関連文書類〕
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木造食行身禄坐像
食行身禄造像記
年代
江戸時代~明治時代
法量
〔木造食行身禄坐像〕.
像高29.0cm、袖張33.0cm、膝張22.7cm、像奥24.6cm
〔食行身禄造像記〕
(1)縦 38.0cm、横 88.0cm (2)縦 38.0cm、横 94.1cm
所有者
個人
所在地
中原区市ノ坪
指定
市重要郷土資料
令和6(2024)年3月26日指定
解説
食行身禄(じきぎょう みろく)とは
食行身禄(1671~1733)は本名を伊藤伊兵衛という伊勢国(現:三重県)出身の商人で、元禄元年(1688)に江戸で富士行者・月行(げつぎょう)に弟子入りし、油売りを営みながら修行を積んだ。享保18年(1733)、庶民救済と世直しを祈願して富士山烏帽子岩で31日間の断食行を行い、そのまま入定した。
身禄の入定後、元文元年(1736)に身禄の弟子であった高田藤四郎が「身禄同行」という講を興したのが富士講の始まりとされ、その後次々と身禄の娘や弟子たちによって富士講が結成されていく。
そうした富士講の隆盛に大きな役割を果たした人物の一人が、身禄入定を見守った田辺十郎右衛門と、その息子で富士吉田御師(おし)、仙行伸月(中雁丸由大夫・なかがんまるよしだゆう)である。彼らの布教により、食行身禄は救世主かつ富士信仰の偉大な先駆者として信者の崇敬をあつめ、江戸を中心としてその近郊にも数多くの富士講が結成されていった。
市ノ坪の富士講関係資料(木造食行身禄坐像及び造像記ほか関連文書類)
木造食行身禄坐像は、川崎市中原区市ノ坪の個人が所蔵する富士行者・食行身禄の木造坐像である。寄木造、彫眼。
所蔵されている古文書「食行身禄造像記」から、文化8年(1811年)の作で、「真行妙忡(しんぎょうみょうちゅう)」が「食行身禄」一体を奉納したことがわかる。またこの文書には、「一ノ坪、北加瀬、中丸子、井田、清沢、山田、荏田、下田、古市場、矢口、峯、羽根田」の村名とそれぞれの地域の行者名などが列記されており、文化8年の時点で、荏原郡、橘樹郡、都筑郡、久良岐郡とかなり広範囲に信仰圏が形成されていたことも読み取れる。
また、富士講のお伝え等、講の活動を行う上で使用された古文書類がまとまって保存されている。
評価
市ノ坪の富士講関係資料は、木造食行身禄坐像の年代と奉納した人々の地域と名前が明らかであることなど、江戸時代後期の川崎市域の富士信仰の様相を物語る一級の資料であるといえる。
〔いちのつぼ の ふじこう かんけい しりょう (もくぞう じきぎょう みろく ざぞう 及び ぞうぞうき ほか かんれんもんじょるい)〕
お問い合わせ先
川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課
住所: 〒210-8577 川崎市川崎区宮本町1番地
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