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後北条氏の虎の印判状(庚寅三月十六日付)

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2010年2月15日

コンテンツ番号752

後北条氏の虎の印判状

後北条氏の虎の印判状(庚寅三月十六日付) 1通

年代

天正18(1590)年

法量

  • 縦31.6cm
  • 横46.3cm

所有者

日枝神社

中原区上丸子山王町1-1455

指定

市重要歴史記念物

昭和50(1975)年12月26日指定

解説

 この印判状は、北条氏直が、上丸子郷と沼目郷(沼部郷)の境界訴訟を判決した文書である。この場合も、今阿弥が奉者として氏直の命をうけ、印判状発行の担当者となっている。この判決が出された天正18(1590)年3月16日は、豊臣秀吉が小田原城攻めのために京都を既に出発している時期である。また、この10数日後には豊臣軍が同城を包囲している。したがって、この文書は、後北条氏最終段階の極めて緊張していた時期に作成され、発給されたものといえる。なお、この印判状のように料紙を2つに折らずに用いる形式を竪紙という。

 境界争いの原因は、天正17年9月以前に起きた多摩川の洪水がもたらしたものである。そのときの洪水によって、上丸子郷のうちが川成、すなわちこの場合は、多摩川の川筋が動き、河岸の田畠にも変動が生じたため、上丸子郷と世田ヶ谷領沼部郷との間で境界争いとなり、後北条氏に訴え出ているわけである。「問答」とあるのが、これを示している。

 そこで、氏直は天正17年の9月、興津加賀守・中田加賀守及び安藤良整の代官である福田某の3人に、検使として実地検分をさせたのである。3人の検使について言えば、興津は江戸衆で江戸城から、中田は小机衆で小机城から、そして安藤の手下の福田は小田原城から、それぞれ選ばれたものとみられる。

 それは、沼部郷は江戸城の領域であり、上丸子郷は小机城の領域であり、さらに上丸子郷は、その多くが直轄領であったので、こうした検使構成で現地調査が行われたものと推察できる。調査に当たった3人の検使は、係争の土地は上丸子郷に間違いないと報告した。そのため、6ケ月後の天正18年3月16日になって、氏直は検使の報告に基づいて、中村五郎兵衛と上丸子百姓中に対し、川成となった田畠の耕作者を決めて、ありのままの年貢を納入するよう命じたのである。

 6行目の「作識」は「作職」の当て字で、作職を申し付けるとは、耕作権を認定すると同時に、その耕作と年貢等納入の義務を負わせる意味が含まれている。なお、中村五郎兵衛は、丁亥(天正15年)8月18日付け虎の印判状に記す「両名主」のうちの1人とみられ、後北条氏から上丸子郷直轄領の管理をも任され、その年貢など納入の責任者である。

 その文書は、16世紀末期における多摩川流路の大変動をうかがわせる一史料であるとともに、後北条氏末期の臨戦体制時における民事裁判の手続きを示している史料でもある。その意味で貴重な史料といえる。

原文

後北条氏の虎の印判状 原文

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