日枝神社本殿
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日枝神社本殿 1棟
附
棟札 1枚
山王社境内絵図 1枚
建築年代
江戸時代〔元文5(1740)年〕
規模
- 桁行12.6尺
- 梁行14.1尺
構造形式
- 三間社流造
- 銅板瓦棒葺
- 母屋丸柱
- 斗栱出組(実肘木・拳鼻付)
- 中備蟇股
所有者
中原区上丸子山王町1-1455
指定
市重要歴史記念物 平成2年1月23日指定
解説
日枝神社(旧名、山王社)は、寛文5(1665)年の丸子山王権現御縁起によると、平安時代初期に近江国坂本にある日吉神社の御分霊を勧請したと伝えられる。鎌倉時代末に、当社の鎮座する丸子荘は延暦寺恵心院の寺領であり、同荘の鎮守社であったと考えられる。室町時代の文明頃(1469~87)には、浅草寺の輪蔵堂が当社を管掌し、社頭はかなり賑わっていたらしい。近世に入り、慶長4(1599)年に御朱印20石を賜わった。
棟札によると、現在の本殿は元文5(1740)年5月に建立され、山王大権現三座の正遷宮が行われた。大工は清沢村(川崎市高津区千年)の木嶋佐右衛門である。彼は影向寺薬師堂(川崎市宮前区)の大工棟梁であった木嶋長右衛門の次男で、木嶋家の名跡を継ぎ、大工棟梁として近在の社寺建築を多く造立した。寛政2(1790)年の山王社境内絵図によると、本殿(本社)は南側に幣殿と拝殿を備えた相の間造であるが、当初幣殿はなく、本殿の向拝は吹放しで、前に浜縁が付いていた。また、本殿の基壇と土台は、大正12(1923)年の震災後に新設されたものである。
本殿は、三間社流造・銅板瓦棒葺の建物で、軸部をはじめ造作材に欅を多用する。平面は母屋梁行2間を棟通りで内陣と外陣に二分し、正側三面に擬宝珠高欄付の大床をまわし、正面に五級の木階を置き、両側大床の背面に脇障子を立てる。
柱間寸法は枝割制により一枝寸法3寸を基準として、母屋柱間は各4.2尺(14枝)等間、向拝は中央間を広くして6.6尺(22枝)、両脇間各3尺(10枝)で、向拝出は5.7尺(19枝)である。母屋は径7.5寸の丸柱を用い、外回りは切目長押、内法長押、頭貫(木鼻付)で軸部を固め、外陣正面三間に各幣軸付の両開桟唐戸、外陣両側に杉戸を立て、ほかを横板壁とする。組物は拳鼻付の出組斗栱で、中備に三猿等の動物を彫り出した蟇股を置き、軒支輪は雲紋を彫った板支輪である。妻飾は二重虹梁を大瓶束で受け、豕扠首にて棟を支えており、妻面の破風の立ち上がりは比較的強く張りがある。また、大瓶束の間に鳳凰を彫った背の高い蟇股を置き、大瓶束及び扠首上の大斗に拳鼻を付け、出組斗栱とあいまって華やいだ感じを造り出している。軒は向拝とも、二軒本繁垂木で、側檐出は出桁から13枝、向拝垂木は母屋地垂木を打越している。内部は内陣の床を高く造って腰長押を入れ、正面3間に幣軸付の両開板戸を建てる。内外陣とも組物は出三斗組、天井は板張りである。
向拝は5寸8分角の角柱(几帳面取)を用い、足元長押と頭貫(獏鼻付)で繋ぐ。中央間を広くしたのは新趣向で、中央間の頭貫を虹梁とし、柱頭正面に獅子鼻を付ける。組物は出三斗で、中央間の頭貫虹梁上に二具の斗栱を置き、母屋柱との間に架けた海老虹梁の尻を受け、中備に龍彫物を置く。両側面の杉戸は後補である。
当本殿は三間社流造の市域における唯一の遺構であり、細部の意匠も整い、18世紀の橘樹郡を代表する本殿である。
棟札(縦93.8cm 横16.2cm 厚さ1.3cm)
銘文・表
銘文・裏
山王社境内絵図(縦33.6cm 横48cm)
銘文・前半
銘文・後半
日枝神社本殿梁間断面図
日枝神社本殿平面図(現状)
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