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徳川氏奉行人(代官頭)連署奉書

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徳川氏奉行人(代官頭)連署奉書

徳川氏奉公人(代官頭)連署奉書 1通

年代

文禄4(1595)年

法量

  • 縦31cm
  • 横44cm

所有者

日枝神社

中原区上丸子山王町1-1455

指定

市重要歴史記念物

昭和57(1982)年9月28日指定

解説

 天正18(1590)年8月、徳川家康は関東へ入国すると江戸を中心とした関東領国の経営に努めている。家康は検地の実施とともに寺社領の寄進安堵をさかんに行い、市域の泉澤寺や王禅寺の朱印高が定められている。しかし、天正20(1592)年2月の代官神谷弥五助重勝の書状(泉澤寺文書)によると、寺領の朱印状の下付は家康が多忙のため遅れており、いずれ江戸へ帰城の際に与えるようにするから寺家は心配せずにいるようにという内容であった。

 こうした書状にかかわらず、それから3年が経過しても下付されなかったことは、さきの泉澤寺や王禅寺の関係文書(『武州文書』『新編武蔵風土記稿』所収)によって明らかである。この日枝神社所蔵の文禄4(1595)年2月26日付の文書は、代官頭伊奈熊蔵忠次、長谷川七左衛門長綱、大久保十兵衛長安、彦坂小刑部元正の連署により山王社(日枝神社)に与えた折紙の奉書(縦31cm、横44cm)であり、ほぼこれらと同じ内容のものである。その代官頭の連署奉書には「いなけの内弐拾石、其の御寺領として神弥五(神谷弥五助重勝)御代官所の時より渡候に、御朱印今に出申さず候間、其内此の手形達せらるべく候、重て御朱印をとり之を進ずべく候」とある。

 これによると山王社への20石は、代官神谷弥五助の時に確定しているが、家康の御朱印状は今になっても出されていない。そのうち、これを証明する朱印状が届くようにする。そして、重ねて朱印状をとって渡すようにするから安心してほしいという趣旨のものである。

 泉澤寺や王禅寺の連署奉書と比べると、文言は同文であるが、文字の一部に若干の相違がみられる。奉行人連署の順序も仙沢寺(泉澤寺)が大久保十兵衛、伊奈熊蔵、彦坂小刑部、長谷川七左衛門、大善寺(王禅寺)が伊奈熊蔵・長谷川七左衛門、大久保十兵衛、彦坂小刑部の順である。山王社(日枝神社)の場合は王禅寺と同じであり、泉澤寺とは異なっている。これらによって、関東入国当時は、連署の順序は必ずしも一定していなかったことが分かる。

 徳川氏は関東入国後、武蔵国都筑郡小机城(横浜市港北区)を廃城とし、代わって代官神谷重勝によって小机領を支配させたとみられる。しかし、重勝の支配は短期間であり、やがて市域は代官頭伊奈熊蔵、大久保十兵衛さらに長谷川七左衛門の管轄下に置かれたのである。この代官頭の連署状は、必ずしも特定の地域に発給されているわけではないが、江戸近郊に位置している川崎市域が、重要な地域とみなされていたことは確かである。そのため初期徳川政権が朱印状の下付が遅れていることに、かなり気をつかっていたとみることができる。

 日枝神社所蔵の山王神社山本丹波の記した一紙文書には、朱印状の下付は「大猷院様(3代将軍家光)御朱印 寛永十九年八月十七日」とあるのが最も古い。これによっても「稲毛山王社領武蔵国橘樹郡上丸子村之内弐拾石」は、泉澤寺や王禅寺と同様に、寛永19(1642)年になって、はじめて朱印状が下付されたとみることができるのである。

原文

徳川氏奉行人(代官頭)連署奉書 原文

お問い合わせ先

川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課

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