木造 釈迦如来坐像(大楽院)
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木造 釈迦如来坐像 1軀
年代
室町時代
像高
198.5cm
所有者
大楽院(中原区上丸子八幡町1522)
指定
市重要歴史記念物 昭和60年12月24日指定
解説
本像が安置される大楽院は、中世からこの地域の信仰を集めていた山王社(現日枝神社)の神宮寺を務めた寺院である。『新編武蔵風土記稿』上丸子村山王社の項には当時大楽院の管理下にあった釈迦堂の記述があり、この本地仏が後に当寺に移安されたものと考えられる。
像は納衣を通肩に着し、禅定印を結んで安坐する。寄木造で玉眼を嵌め込むが、近年修理が施され、現状では木寄せなど詳しい構造は窺えない。幸い『新修世田谷区史』に本像の修理以前の調査報告がある。要約すると、頭部は前後左右四材矧ぎとし、両耳などの小部材を別材で寄せて挿し首とする。体部は太い縦材を数本矧ぎ寄せて桶状の躯幹部を形成し、底板は貼らない。脚部は3本の横別材を寄せる。この報告には触れていないが、両袖口先材と禅定印を結ぶ両手先も別材であろう。
像の胎内には長文の墨書銘が記されていて、これによって本像が戦国時代に武蔵国世田谷と蒔田の地を領有していた吉良氏を継ぐ吉良氏朝(1543~1603)とその家臣たちが、一族の「所願成就・皆令満足」を祈願して造立したことがわかる。氏朝は永禄3年(1560)に今川氏から吉良頼康の養子として迎えられ、後に北条氏康の女を室としたが、天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡とともに徳川家康に降っている。
この銘文には年紀はないが、この間に本像が造立されたものと考えて差し支えないであろう。また銘文には「鎌倉大仏所、権大僧都法印長鑑、同小仏所̻□上野」とある。作者が鎌倉仏師であることは疑いないが、『新修世田谷区史』では長鑑を仏師ではなく供養導師としている。しかし、16世紀に活躍した鎌倉仏師をみると長勤・長慶・長盛・長藝など意外に「長」の字を名前の一字に用いているものが多い。勿論、これらの仏師たちを長鑑と同系の仏師たちと考えるのは危険だが、特に大蔵長盛は権大僧都を名乗り、永禄2年(1559)には東京円融寺仁王立像を上野という仏師とともに造像していることは注目されよう。
低めの肉髻、大粒の螺髪、脚部に見られる複雑な衣褶など作風的には鎌倉時代以降に流行した宋元風の特色が顕著に見られるものの、その表現には硬さが目立ち、精彩を欠いたものとなっている点は否定できない。
比較的小規模な造仏が多いこの時期にあって、本像のような大型像は珍しく、一族郎党の安泰を祈る戦国武士のモニュメンタルな遺作としても貴重な存在である。
銘文
胎内墨書銘
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