石造 小林正利坐像
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石造 小林正利坐像 1軀
年代
江戸時代〔宝永5年(1708)〕
像高
51.7cm
所有者
全龍寺(中原区下小田中5-3-15)
指定
市重要歴史記念物
昭和60年12月24日指定
解説
風折烏帽子をかぶり、紋(丸に揚羽の蝶、輪違)付の直垂を着した俗体の坐像。左脇下に穴が穿たれており、元来は刀を差していたと思われるが、現在は右手の持物とともに欠失している。一石から刻んで彩色、紋には金彩を施す。次のような刻銘がある。
これらから、この作品が宝永5年(1708)に江戸の石工船戸屋八郎兵衛が造った小林正利の寿像であることがわかる。『寛政重修諸家譜』によれば、正利の属する小林家は家康・秀忠・家光・家綱の徳川四代に仕えた旗本小林権大夫正吉(1587~1661)に始まり、正利は彼の孫にあたる。同書は正利について、
「承應元年8月28日はじめて嚴有院殿(家綱)に拝謁し、3年7月18日大番となり、延宝2年7月12日遺跡を継、5年11月29日御銕砲箪笥の奉行にうつり、宝永元年5月26日務を辞し、正徳元年3月24日死す。年77。法名成石。妻は窪田氏の女。後妻は植村孫左衛門某が女」
と記す。文中の「遺跡」は父正綱が知行していた武蔵国多摩・橘樹両郡の450石をさす。
この略伝にはみえないものの、村上直氏(法政大学名誉教授)の御研究によると、正利がうけ継いだ知行地は多摩郡茂草村(百草村。現東京都日野市)と橘樹郡下小田中村(現川崎市中原区)の二箇所で、石高は前者が300石、後者が100石であったという。これを踏まえて同氏は正利の本拠は茂草村にあったとされ、銘文中の「観音堂」は同村の古刹正連寺(廃絶)を正利が再興した時、彼が境内に建てた一堂であることを考証、以下のように推測しておられる。
「正利の坐像は(中略)黄檗宗桝井山松連寺の再建に当り、特に観音堂の開基となって、寺運の隆盛を祈念し、宝永5年(1708)8月15日に完成した寿像ではないかと思う。したがって、本来は百草村の松連寺、または小林正利の陣屋内に置かれていたものであろう。(中略)恐らく前年11月の富士山大噴火にともなう世情不安の折柄、一層、正利に(中略)信仰心を強めさせていったものと思われる。
旗本小林氏の百草村の知行地は、正與(正利の子-引用者註)の時に、正徳4年(1714)8月に農民との紛争が原因で、越前国丹生郡の内に移されている。代って知行地である幕府直轄領=天領となり代官支配が幕末まで行われている。そのため陣屋は廃止されたため、恐らく正利の石造坐像は、関東の唯一の他の知行地である武蔵国橘樹郡下小田中に移され、福聚山全龍寺に預けられることになったと思われる」
長い引用になったが、従うべきであろう。像は着衣部の衣皺は整理されて柔軟な写実性を欠く。だが、面部は額の皺、みひらいた両眼・やや歪んだ意志の強そうな唇などに像主の特色をよく写している。風折烏帽子の尖端を頂点とする二等辺三角形に、強く左右に張った両袖をあしらって変化をつけた全体の構成も巧みといってよいであろう。造立年代・作者ともに明確な俗体武士姿の石造寿像は全国的にも珍しく、きわめて貴重な遺例である。
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