神庭遺跡

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2010年12月20日

発掘中の神庭遺跡

発掘中の神庭遺跡

地図

解説

 東急東横線日吉駅から北西約1.5kmの矢上川を見下ろす台地上に神庭(かにわ)遺跡があります。昭和47・48年(1972・1973)に県立中原養護学校建設の事前調査として発掘されました。その結果、縄文時代中期(約4500年前)が41軒以上、弥生時代後期(約1700~2000年前)が93軒以上、古墳時代のもの44軒以上、という合計185軒をこえる膨大な数の住居跡が発掘されました。
 縄文時代の住居は、径が5m前後の円形、隅の丸い方形、五角形、六角形など、形が異なっていますが、これらは時期差を示しているものと思われます。その分布は、台地の縁にそって見つかっており、中央部分が広場となるこの時期の典型的な馬蹄形(ばていけい)集落をなしていました。
 弥生時代は、この遺跡の最盛期にあたり、すべてが同一時期ではありませんが、台地上には広範囲で濃密に住居跡が分布しています。遺跡の北直下には矢上川が、そして、その先には多摩川の広大な沖積低地が続いていますので、この遺跡は稲作には非常に適した地に立地していたことになり、したがって、大きな集落を作るだけの基盤があったものと思われます。
 古墳時代では、初めの頃はまだ集落が継続されていますが、中頃になると住居数は急激に減少し、一時的には集落が途絶したものと考えられます。このような大きな変化が何だったのかはわかっていませんが、あるいは武蔵国の古代政権の移り変わりと影響があるのかもしれません。
 この遺跡の約2km下流には、古墳時代前期の前方後円墳である観音松古墳、同白山(はくさん)古墳が、また、多摩川対岸、直線距離で約3.5kmの位置にも同様の宝莱山(ほうらいさん)古墳、亀甲山(かめのこやま)古墳と計4基の前方後円墳が相対し、古墳時代初頭の武蔵国の一大勢力を誇っていました。このような多摩川下流域の豪族と神庭遺跡の関係は明確にはつかめていませんが、その経済的な基盤を支えていた集落の一つであることは間違いないでしょう。また、この台地の東側には、弥生時代の墓を伴う井田伊勢台遺跡があり、未調査区域も残っていることを考えれば、この遺跡の大きさに改めて驚かされます。

器の出土状態

土器の出土状態

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