枡形城跡

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2010年12月20日

枡形城址碑

枡形城址碑

住所

多摩区枡形6-4740ほか(生田緑地内)

交通案内

小田急線「向ヶ丘遊園駅」南口下車、徒歩15分

地図

解説

 小田急線向ケ丘遊園駅の西南約800mの丘陵地に枡形(ますがた)山があります。山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような断崖で囲まれた要害の地をなしています。おそらく枡形山という地名は、こうした地形が枡の形に似ていることから名付けられたのでしょう。
 枡形山は枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここが城であったことが文献からもうかがえます。
 古くは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。その後、室町時代の永正元年(1504)には、山内上杉氏の討伐を狙っていた北条早雲が軍勢を進めて枡形城に入りました。
 そして、扇谷上杉朝良を助けて、山内上杉顕定の軍と多摩川の河原で戦い、激戦の末、山内上杉軍を破ったと『家長手記』や『松蔭私語』では記しています。また、先の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の永禄12年(1569)、甲斐(かい)の武将・武田信玄が小田原へ出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成は、枡形山に土塁を築いて後北条氏のために守りを固めたと伝えています。
 こうしてみると、この枡形山は天然の要害をなした山城として、鎌倉時代から戦国時代の武将たちの目にとまるところとなり、たびたび利用されてきたものと考えられます。
 現在、枡形城跡は生田緑地の中に公園として保存されています。山頂の広場には碑が建てられ、郷土の生んだ文学者・伊藤葦天の句が刻まれてます。
 「馬場あとも やかたあとも 秋の風」

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