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木造 地蔵菩薩立像

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2013年2月5日

木造 地蔵菩薩立像

木造 地蔵菩薩立像 1軀

年代

平安時代

像高

142.9cm

所有者

広福寺(多摩区枡形6-7-1)

指定

県指定重要文化財 昭和41年7月19日指定

解説

 像高4尺余りの立像で、現在同じく県指定の聖観音立像と共に収蔵庫内に安置される。
 左手を屈臂して宝珠を載せ、右手に錫杖を執り、両足を揃えて立つ。服制は大衣を通肩に纏って、袈裟を懸け、裙を着ける。一木造、彫眼の像で、両手首より先、両足先、足枘、持物、台座、光背が後補と考えられるが、面部などには修理の際に手が加えられている可能性もある。
 形の上では、胸部肉身をかなり広く見せるように衣を着けているのが一つの特徴といえる。また、正面の袈裟の衣文の刻み方は、福島勝常寺像あたりを古例とし、京都六波羅蜜寺像などへとつながってゆく形がかなり形式化したものと考えられよう。
 本像は全体としては頭部及び上半身が大きめに造られ、下半身は先細りになる印象がある。肉付けは各部とも極めてあっさりとしており、筋肉の張りを強調するような箇所はなく、量感はできるだけ抑えられている。それ故、側面観は極めて偏平となっている。衣文は彫りが非常に浅く、線条的となっており、数も少ない。正面よりもむしろ背面の衣文表現の方が質感をとらえているのは興味深いが、正面は後補により当初の像容と変わっている可能性もあろう。以上のような作風からみて本像の制作は平安時代も末期と思われる。ただし、その頃の像としては肩がかなり張って力があること、表情は穏やかな平安後期風を基調としながらもやや厳しさが感じられることなどからすると、鎌倉時代に入ってからの造立ということも考えられ、いわゆる藤末鎌初期の作例とした方がよいかもしれない。
 『新編武蔵風土記稿』の「廣福寺」の観音堂の項に「又同作ナリトテ木像ノ地蔵アリ別ニ龕ニ蔵シテ此堂ニ安ズコレモ四尺許ノ立像ナリ」と記される像が本像に当たると思われ、もとは観音堂に祀られていたことがわかる。廣福寺は新義真言宗の寺院であるが、寺伝では開山を慈覚大師とし、安貞元年(1227)正月10日に示寂した長弁という僧を中興とする。しかし『風土記』は、これは昔この地にあった別の寺のことで、実際の開山は元禄16年(1703)8月12日示寂の法印定賢であろうと推定している。それゆえ『風土記』は当寺が稲毛重成を開基とすることや、重成とのゆかりをうたういくつかの寺伝に対してもことさらに否定的で、「後人ノ付会ナルベシ」、「イズレモウケ難キモノナリ」などと記している。しかし、稲毛重成がこのあたりを所領としていたことは確実で、当寺に近い枡形城跡は重成の城跡といわれている。従って、重成との関係をうたう寺伝もあながち故なきこととはいえない。中興開山の長弁と重成は年代的に矛盾はなく、何らかの根拠ある伝えとも考えられる。直接当寺とは関係しないとしても、『風土記』の記すようにかつてこの地には重成ゆかりの寺院があったことは十分考えられ、当寺はそれを引き継いだとみることも可能であろう。とすれば、本像の制作は重成の在世中と重なると推定できるだけに、興味深いものがあるが、現時点ではこれ以上の憶測は難しい。

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