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汐留稲荷神社

  • 公開日:
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池上幸豊翁之碑

池上幸豊翁之碑

住所

川崎区池上新町2-24-21

交通案内

JR・京浜急行「川崎駅」東口から臨港バス川21系統、川崎市バス川10系統「臨港警察署前」下車、徒歩約3分

地図

解説

 汐留稲荷神社は、豊宇気姫命・大物主大神・崇徳天皇・池上太郎左衛門幸豊命を祭神とする社で、宝暦11(1761)年に池上新田の守護神として勧進されました。

 祭神として祀られている池上幸豊(いけがみゆきとよ)は、享保3(1718)年に武蔵国橘樹(たちばな)郡大師河原村に生まれました。

 池上氏は、藤原忠平(880~949年)の後胤と言われ、武蔵国荏原郡千束郷(現・大田区千束)に住んでいました。幸豊の24代前の池上宗仲は、日蓮宗大本山池上本門寺(大田区池上)を建立し、曾祖父の幸広は、池上本門寺を再建するとともに、多摩川河口に大師河原稲荷新田を開拓し、この地に一家をあげて移り住みました。

 幸豊は、12歳の時に父を亡くし、その跡を継いで、大師河原村の名主となりました。延享3(1746)年には、江戸幕府に新田100町歩(約100ヘクタール)の開発願いを提出しましたが、幕府の許可はなかなか下りず、宝暦2(1752)年になって15町歩の開発が認められましたので、幸豊は宝暦6(1756)年より開発に着手しました。

 幸豊が新田開発に採用した埋め立て方は、「笹出し」と呼ばれる方法でした。その方法は、干潮の時に海岸に杭を打ち、その周辺に笹をたてて砂が集まりやすくして砂山をつくり、そこに茅や葦を植えて固め、それを徐々に拡大するというものでした。こうして6年の歳月と767両余りの費用をかけた結果、面積14町5反余の新田が開発され、宝暦12(1762)年に「池上新田」と命名され1村となりました。

 また、幸豊は新田開発のほか、和製砂糖や氷砂糖の製造を行ったほか、製塩、ナシ・ブドウの果樹栽培などの産業開発にも貢献し、川崎の発展に大きな功績を残しています。