遍照寺の半鐘
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令和元(2019)年8月、静岡県富士市内の鉄工所で「武州橘樹郡河崎領」(現在の川崎市)の文字が刻まれた半鐘(はんしょう)が発見されました。
教育委員会事務局文化財課において、消されてしまった半鐘表面の文字を解読したところ、江戸時代に檀家などの集まりである講中から川崎区中島に所在する遍照寺(へんじょうじ)に寄進されたものであることが判明し、令和2(2020)年12月に遍照寺へ里帰りを果たしました。
半鐘とは
半鐘とは、銅に錫や亜鉛を加えて鋳造した小型の釣鐘で、大きい梵鐘(ぼんしょう)よりも小さいことからその名がつけられており、仏教の伝来とともに飛鳥時代から存在したといわれています。江戸時代に最も多く製作されましたが、その多くが第二次世界大戦時に供出されて鋳潰され、戦前からある鐘は少なくなってしまいました。この半鐘も、戦時中の供出に応じて供されたと考えられます。
遍照寺の半鐘は、江戸神田の鋳物師である小沼播磨守(こぬまはりまのかみ)によって製作されました。小沼播磨守は、江戸時代前期から中期にかけて、3代にわたり江戸神田に住んだ近世の鋳物師です。活動時期から考えると、3代目の小沼播磨守藤原長政(ふじわらながまさ)が製作したと考えられます。
文化財課による調査
発見された半鐘に刻まれた銘文は、一部が人為的に削り取られていましたが、 「武州橘樹郡河崎領」の文字とペンキのような液体で記入されたと考えられる「30Kg」の文字から、現在の川崎市域にある寺院から大戦時に金属供出された鐘であることが推測されました。
肉眼観察によって当初の痕跡を断片的に確認できたため、撮影した写真を画像編集ソフトウェアによって編集し、陰影を強調することで線刻の鮮明化を行い、文字の判読を進めました。その結果、一部不鮮明な状態ですが「中島村」「遍照寺」「光明山」「義珍」「正徳元年十二月」と思われる文字を解読することができました。しかし、画像編集だけでは完全に判読することができなかったため、この段階では、所有者の特定には至りませんでした。
そこで、判読できた文字と『新編武蔵風土記稿』の記述から、遍照寺の半鐘であると仮定し、寺院への聞き取り等を行いました。その結果、半鐘に刻まれた住職の名前「義珍」が遍照寺の墓誌に刻まれており、奉納された当時に存命していたことが確認できたことから、遍照寺の半鐘であることが判明しました。
消された遍照寺の文字
画像編集後
浮かび上がった文字
遍照寺の歴史
川崎区中島に所在する天台宗の寺院です。山号を光明山(こうみょうざん)といいます。江戸時代に編纂された地誌である『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』によると、寛永19(1642)年に天海僧正によって与えられた書物を所有していることが記されています。また、寺の墓誌には、慶安2(1649)年に遷化した法印髙海によって開山されたと記されています。
川崎大空襲によって多くの寺宝を焼失しましたが、当時の住職が本尊である阿弥陀如来立像を井戸へ避難させたことで今日も現存し、地域の人々に篤く信仰されています。
年号 | 出来事 |
---|---|
慶安2(1649)年 | 遍照寺を開山したと伝えられている法印髙海が遷化する。 |
正徳元(1711)年 | 12月、半鐘が遍照寺へ寄進される。 |
正徳3(1713)年 | 9世住職の法印義珍が遷化する。 |
大正13(1924)年 | 川崎市誕生 |
昭和12(1937)年 | 日中戦争開戦 |
昭和14(1939)年 | 5月、川崎市内で国防婦人会による金属回収が行われた記録あり。 9月、第二次世界大戦開戦 |
昭和16(1941)年 | 9月、金属類回収令が施行される。以降、川崎市内でも、一般家庭及び非軍需産業の金属回収が本格化する。 12月、太平洋戦争開戦 |
昭和20(1945)年 | 4月15日、川崎大空襲 8月、第二次世界大戦終結 |
平成31/令和元(2019)年 | 8月、静岡県富士市内の鉄工所で半鐘が発見される。 |
令和2(2020)年 | 12月8日、半鐘が遍照寺に返還される。 |
関連資料
- 「故郷に帰った半鐘展」解説資料(PDF形式, 265.19KB)別ウィンドウで開く
令和3(2021)年2月8日から18日まで、川崎市役所第3庁舎で開催した展示にて配布した資料です。
お問い合わせ先
川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課
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