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手洗石

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手洗石

手洗石 1基

年代

江戸時代(享保14年・1729)

法量

高さ 77cm
幅 (上部)136cm (下部)132cm
厚さ (上部)64cm (下部)61cm

所有者

稲毛神社(川崎区宮本町7-7)

指定

市重要歴史記念物 昭和63年11月29日指定

解説

 稲毛神社に奉納される手洗石は、近世を代表する地方巧者であり、『民間省要』の著者として知られる田中休愚と深くかかわるものである。
 休愚は、諱(いみな)を喜古(よしひさ)、みずからは休愚・休愚右衛門と称し、冠帯老人・武陽散民とも号した。寛文2年(1662)、武蔵国多摩郡平沢村(東京都秋川市)の旧家窪島八郎左衛門の次男に生まれ、長じて農業の傍らに絹織物の行商などもおこない、これが縁となり川崎宿本陣田中兵庫の養子となる。宝永元年(1704)には、家督を継ぎ本陣の当主となり、まもなく問屋・名主役も兼帯し、宝永6年(1709)には六郷川渡舟権を取得して窮乏していた川崎宿財政の建て直しに大きな功績を残した。ただし、手洗石が奉納されたのは、この時期のことではない。休愚の経歴をさらに確認するならば、同人は正徳元年(1711)問屋役などを離れ、江戸に遊学し、荻生徂徠や成島道筑などに学び、享保5年(1720)には、西国行脚にも出る。50歳を過ぎてからのことである。そして同6年には自らの経験に基づく民政上の意見書『民間省要』を完成させたのであった。同書は翌年、成島道筑や大岡忠相によって、将軍吉宗へ献上され、民政への参加が期待されることになった。享保8年(1723)には、早速、10人扶持が給され、勘定所の役人井沢弥惣兵衛の指揮のもと、荒川や多摩川、六郷・二ヶ領用水の普請をおこなう。さらに享保11年(1726)には、当時地方御用を兼帯していた町奉行大岡越前守忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水害に悩む酒匂川の治水工事にあたり、一応の成果を収めるのであった。幕府は、これを高く評価し、同14年7月、休愚を武州多摩川周辺三万石余を支配する代官(支配勘定格)に抜擢した。多くの川崎市域の村々も、休愚支配下となっている。百姓身分から幕府代官へという、当時の社会にあっては極めて稀な抜擢である。しかし、5ヶ月後の12月22日には、江戸の役宅に没した。享年68歳。墓は田中家先祖代々の墓があった市内妙光寺に立てられた。
 手洗石が奉納されるのは、この没年享保14年(1729)の6月15日のことである。奉納先の稲毛神社は、明治以前「川崎山王社」と称し、鎌倉時代佐々木高綱が奉行を勤め造営したという。近世においては、社領20石が安堵され、東海道川崎宿の総鎮守として人々の崇敬を集めた。
 手洗石に刻まれる銘文によれば、奉納は休愚の実子や手代によってなされた。すなわち、田中仙五郎は休愚の次男で、御金奉行を勤めていた幕臣長谷川市郎左衛門安貞へ延享3年(1746)に養子に入り安卿(やすあきら)を名乗り書物奉行などを勤めた人物である。田中団助も縁者とみて間違いない。(妙光寺の田中家の墓所には、明暦元年(1655)の二代目兵庫の墓の施主名に田中弾助という名が見える)。森田重郎衛門、富永軍治、門田半四郎は、休愚の手代であり、治水事業などに関係して当時の文献にもしばしば登場する。なお、森田・富永・門田の名は、休愚の死後、同人の墓前に奉納された石灯籠(妙光寺)にもみとめられる。
 休愚の手代や子息の名前がみえるにもかかわらず、いまだ在命中の休愚自身や、休愚の没後代官に抜擢される長子休蔵の名が見えないのはやや不自然であるが、想像することが許されるならば、同年7月の代官就任と関連するのではないか。つまり、手代や実子が就任を祈願して奉納したと見ることはできないか。休愚自身や休蔵の名が見えないのも、本人自身の望みが公になることをはばかったためではなかろうか。真相解明は、今後の課題である。

銘文

手洗石 1基 銘文

手洗石銘 翻刻文画像

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川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課

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