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平川家文書

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2016年5月10日

平川家文書

平川家文書 一括

年代

江戸時代中期~明治時代

所有者

個人(川崎区)

指定

市重要歴史記念物 平成10年2月24日指定

解説

 平川家に伝えられた本文書群は、田中休愚家と、平川家に伝来した古文書群からなる。これらは相互に関連する内容であり、点数は総数112点、そのうち田中家文書と見られるものは26点、平川家伝来文書が86点である。田中休愚は、東海道川崎宿の本陣・問屋・名主を兼務し、その体験に基づき「民間省要」を書き上げたことで知られる。民間から独自の経世論を展開したその書は享保7年(1722)、将軍徳川吉宗へ献上され、主張の一部は享保の改革でも取り上げられた。また、田中休愚自身も幕府に登用されて多摩川や酒匂川の普請などに関係し、享保14年(1729)には、町奉行大岡越前守忠相配下におかれ、支配勘定格で幕領3万石余の地方支配を担当した。幕府役職への就任から田中家は、浅草高原町字八軒寺町と川崎の双方に居を構え、それぞれ独立した家となった。
 平川家に伝えられた田中家関係文書は、その大半が川崎の田中家に伝来したものである。その中には田中休愚による「民間省要」「走庭記」「続夢評」「玉川堂稿」などがある。また、明治20年(1887)頃に書写された浅草・田中家に伝来した先祖書なども見られる。「民間省要」をはじめとするこれらの文書は、いずれも当該地域の歴史や幕府の享保の改革、幕府の地方巧者などの研究を進める上で貴重な文書であり、すでに『神奈川県史』や『川崎市史』などでも、その価値が認識され、一部が公刊されている。
 一方、平川家によって授受、作成され伝来してきた文書群は、明治18年(1885)から21年(1888)の田中休愚と小泉治太夫(次大夫)の顕彰に関する水恩講社(水恩報社などともいう)史料と、同講社による明治35年(1902)の両人の功徳碑建立に関する史料などが大半を占める。
 当時、川崎新宿町にあった平川家は、水恩講社の発起人惣代を務め、二ヶ領用水の開削に深く関係した幕府代官小泉治太夫と田中休愚を顕彰する運動を進めていた。
 所蔵文書のひとつ「禺老忠政遊覧記」の著者である池田忠政もその一員である。池田は旧幕臣(作事方)であり、明治期には宮内省内匠課に勤めたが、明治16年(1883)川崎宿に住し、近隣の神社仏閣や史跡を訪ね、遊覧記を綴り始め、小泉治太夫(次大夫)や田中休愚の功績を後世に伝えることの重要性を認識させた。明治18年(1885)4月の「発念御相談書」は、これを平川氏など7名に呼びかけたものである。また、平川家の当主平五郎も、池田などとの交流から、自ら「休愚君記録」「小泉治太夫水功誌」「小泉治太夫百五拾遠忌主意書」などを記してきた。さらに惣代として記念碑の建立を進めた。寄付や建設費などを具体的に記した文書も見られる。
 このように平川家所蔵の文書群は、江戸時代における卓越した民間の経世家・田中休愚の著作物と、当該地域の新田開発や治水に大きな貢献をなした田中休愚や小泉治太夫に対する地域住民の顕彰と事績の解明に関する記録からなっている。これにより各時代の中で両人の人物像がどのように捉えられ、地域住民に示されてきたのか、歴史的な人物への人々の働きかけを、意識と行動の面から客観的に捉えることができる。田中家伝来文書が平川家ヘ譲渡された理由も、こうした地域社会の動向と密接な関係にあったということができる。これらの文書は個々に重要な史料であるばかりでなく、一括した文書群として市域の歴史を語る上で貴重である。

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