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旧三澤家住宅

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2010年6月7日

旧三澤家住宅

旧三澤家住宅 1棟

建築年代

江戸時代後期

規模

桁行13.6m 梁行15.5m

構造形式

切妻造、石置板葺、一部中二階

所有者

川崎市

所在地

多摩区枡形7-1-1(日本民家園)

指定

県指定重要文化財 昭和47年11月24日指定

解説

 三澤家住宅の旧所在地は中山道信濃路の脇往還・伊那街道(三州街道)に面する宿場町・伊那部宿(長野県伊那市)である。天保11年(1840)に焼失したという伝承があり、現主屋は様式や技法からみて、その直後の再建とみてよいようである。
 三澤家は屋号を「槌屋」(つちや)といい、元禄(1688~1704)より代々組頭役で、一時名主も勤めた家柄である。そして嘉永7年(1854)には年寄筋(名主問屋筋)に昇格、文久頃(1861~64)から薬種業を営み、明治に入って旅籠も兼業した。
 伊那部宿の町屋には共通した要素が多くみられ、三澤家もその例外ではない。まず屋根は切妻造で街道と平行に棟を置く、いわゆる平入である。屋根材には榑板という厚さ9mm、幅10cm、長さ60cmぐらいの手割の板を葺足10cm程でならべ、これを押縁で押さえて大きな石を乗せるという、簡単な造りである。3寸勾配ぐらいの緩い屋根傾斜なので、外観はゆったりとしている。壁は内外ともに土壁漆喰仕上で、外部に露出した貫と柱によって作られる格子模様が美しい。街道に面して中2階の外観を見せるが、軒高は11.4尺で平屋建とさほどかわらない。そして2階床から桁行まではわずか3尺である。2階が乗るのはミセの西の間上部だけで、ここは出格子とし、内側に障子を入れている。2階の壁面は1階の壁面より3尺ほど前に迫り出し、この部分がミセ前面の縁側及び土間入口の前を覆って、雨よけの役割をしている。
 客座敷であるザシキ・カミザシキへの入口には式台を構える。この部屋の壁面はミセよりも6尺さがって作られ、前をナカニワとしている。中庭は周囲を塀で囲み、通りに面して瓦葺の門を開く。このように当家の街道側の立面は変化に富んでおり、また意匠的にも見栄えがする。
 三澤家の平面を機能によって分けると4つの部分から成っている。つまり作業空間である土間(トオリ)と、商いのための2室のミセ、接客のためのザシキ・カミザシキ、そして日常生活のためのオオエ・ダイドコロ・ナンドである。
 これらは格式としての空間の表現をそれぞれ異にしている。最も格式の高い客座敷は畳敷で天井は猿頬天井とするのに対し、家人の生活空間であるオオエ・ダイドコロは板敷で天井はない。ミセは両者の中間で、畳敷だが、土間側のミセは低い根太天井、奥のミセは竿縁天井である。そしてオオエやダイドコロと土間との間には何の仕切りもなく、また天井を張らないために小屋裏まで見通しがきき、両者が一体となって広々とした空間を作り出している。
 家の造りは幕末期のものらしくかなり進んでいる。例えば、各室の間仕切には差鴨居を多用して、柱は原則的に部屋の四隅にしか立てられないので、部屋同士のつながりがたいへんよい。柱寸法は4寸が標準で、大戸口両脇やミセの出隅の柱、オオエ・ダイドコロ境の土間側柱などにひとまわり太い材を用いている。いずれも鉋仕上である。
 以上のように三澤家住宅は伊那街道添いの町屋の特徴をよく表現しており、また意匠的にも質的にも優れていて、町屋の遺構として貴重な存在である。

旧三澤家住宅平面図

旧三澤家住宅平面図

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